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しあわせ図鑑 16

前置き こんにちは、志生帆海です。 秋庭新刊同人誌のご予約ありがとうございます。 BOOTHは現在在庫0になっていますが、秋庭(10月12日)当日に補充します。 では本編の続きをどうぞ。 少し物語を展開させていきますね。 ****  宗吾さんと芽生くんに見送られ、僕はいつもとは逆方向の電車に乗った。  今日の職場は、お台場の『ホテル月航』  そこは、遠い昔、一馬と訪れたことのある場所だ。  あの頃の僕は奨学金でようやく大学に通える貧相な学生で、高級ホテルに足を運ぶなんて夢のようなことだった。スニーカーにくたびれたジーンズ姿で煌びやかなロビーに立つと、居場所を間違えたような気がして俯いてばかりいた。  一馬もラフな格好ではあったけれど、彼は違った。背筋を伸ばし、堂々と歩いていた。  そうだ、あいつはいつだって自分を卑下することなく、まっすぐ前を向いていた。  育ちや環境の違いもある。だけど、それ以上に僕にはないものを持つ凛とした一馬の姿は眩しくて、憧れそのものだった。  だから僕は、あいつを好きになった。  ――きっといつか消えゆく恋だと知りながら。  苦くも懐かしい記憶が胸をよぎり、電車の窓に映る自分の顔を見つめる。    こうして過去を振り返ることができるのも、いまの僕が安定しているからだ。宗吾さんと芽生くんに支えられて、僕はようやく自分を信じられるようになった。  やがて電車がホームに滑り込み、アナウンスが響く。  今は過去に浸っている場合じゃない。  胸の奥でそう呟き、僕は立ち上がった。  お台場駅を出て、ホテルのエントランスをくぐる。  入ってすぐの場所に、今日の僕の仕事場があった。  ガラス張りのウェディングチャペル。  天井まで届く大きな窓から朝の光が差し込み、床の大理石を淡く照らしている。人影はまだまばらで、清掃スタッフが静かに行き来しているだけだ。  静かな空気に、わずかな緊張と高揚が同時に胸を満たした。  僕は背筋を伸ばし、深く息を吸う。  今日の取材は就職雑誌の企画。  花に関する仕事を、僕を通して紹介するという。  人前に立つのは得意じゃないけれど、きっと大丈夫。  そう言い聞かせながら。  会場の隅には、すでに加々美花壇の花材が運び込まれていた。  茎や葉の青い香りがふっと鼻をかすめ、心がすっと落ち着く。  その場に近づくと編集者やカメラマンが僕を見つけ、こちらに歩いてくるのが見えた。 「葉山さん、おはようございます! お早いですね」  佐藤杏子さん。彼女が今回担当の編集者だ。 「おはようございます。今日はよろしくお願いします」 「こちらこそ。今、機材をセッティングしていますので、少しお待ちくださいね」  彼女の明るい笑顔に、不安で固まっていた肩の力がふわりと抜ける。  ぐるりと辺りを見渡すが、芽生くんたちの姿はまだない。  けれど、朝の会話を思い出せば、心細さも和らぐよ。  ――緊張で手が止まったら、宗吾さんや芽生くんの声を思い出そう。  僕は一人じゃない。そう、もう一人じゃないんだ。 「あの、花材の準備をしてもよろしいですか」 「もちろんです。早速、カメラの方も少し撮影を始めますが、よろしいですか?」 「はい、そのお約束ですから」 「ありのままを撮りたいので、意識しないでください」 「そう努めます」  黒いエプロンを身に着け、白いシャツの袖を軽くまくる。  すると、カシャカシャとせわしなくシャッター音が響いた。  撮影されていることをどうしても意識してしまうが、ユリの茎や葉に手を伸ばすと、その感触が心を穏やかにし、次第にこわばりも解けていった。 「すみません。一度視線をこちらに向けて下さい」 「あ、はい」  カメラマンが角度を変え、照明が調整される。  レンズが僕をまっすぐに捉えると、また鼓動が早まる。  その時、カメラマンがふっと漏らした。 「へぇ、絵になるな。佐藤さん、ずいぶん綺麗な子を見つけてきたね」 「彼は顔じゃなくて、内面がとっても綺麗なんです。だから、そんな言い方失礼ですよ。色眼鏡で見ないでください!」  佐藤さんの強い言葉に、胸が熱くなる。  そうだ、僕は僕のままでいい。  その後押しに導かれるように、慎重だった手も次第に迷いなく動き出した。百合の茎を切り、カーネーションを添え、花々の調和に心を委ねていく。  やがて、会場には人が集まり始めた。  今日は特別に公開取材をしている。  普段なら人目に触れない生け込みの作業を見せる場だ。  そのおかげで、芽生くんたちに僕の仕事を生で見てもらえる。  滅多にない機会だ。  そう思えば、どんな視線も困難も乗り越えられる気がした。  作品が八割ほど仕上がり最後の調整に入るために、一歩下がって全体を見渡していると、カメラマンが僕をじっと見て言った。 「あのさ、オレは前に報道の仕事もしてたんだけど、さっきから気になって」 「えっ……」 「君の顔を、どこかで見たことがある。……確か……なんかのストーカー事件で……もしかして」  その瞬間、僕の身体は硬直した。  心臓の脈打つドクンドクンと大きな音が、耳の中で響いている。  呼吸が急に浅くなって、吸った空気が引っかかり喉が詰まりそうだ。  手のひらが湿り、花鋏を握る指先がじっとりと汗でにじんだ。  腕の力が抜けるように震え、次の瞬間、花鋏が手からするりと滑り落ちてしまった。  ――ガシャン!  大理石の床で、金属が跳ねる乾いた音が、異様に大きくやけに遠くから響く。  一気に周囲の視線を浴びる。  ギャラリー、カメラマンや照明、佐藤さんが皆そろって驚いた顔をしている。 「……」  だが僕には周囲のざわめきも佐藤さんの声も、すべてがぼやけて聞き取れない。  視界が狭まり、さっきまでは心地よかった朝日が眩し過ぎてきつい。  ガラス越しの外が、白い靄に溶けていく。  体からは変な汗がドバっと噴き出し、背中を伝っていく。  指先は冷え切り、両足が石のように固まって動けない。  まるで蜘蛛の巣にかかった蝶のようだ。  ――やめてくれ! それは思い出したくない。  過去の二度のストーカー事件が、暗い霧のように押し寄せる。  体を拘束された絶望感  逃げられない焦り  追われる恐怖  フラッシュの光。  あの時の恐怖がどんどん襲ってくる。  どうしよう、動けない。  駄目だ……  芽生くんたちや佐藤さんの前で、崩れたくない。  落ち着け、瑞樹。  宗吾さん……  深呼吸……そうだ、深呼吸をしよう。  でも、あの顔……あの光景が僕を!  頭の中で言葉にならない声がぐるぐると回り、思考がまとまらない。  僕は瞬きもできない状態で立ち尽くすしかなかった。

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