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しあわせ図鑑 17

 花鋏が床に落ちる音が、大理石の空間に乾いた反響を残した。  報道カメラマンをやっていたという代理の男性の声が、頭の中でぐるぐると回っている。 「君の顔、どこかで見たことがある……確か、ストーカーの事件で……」  何度もリフレインする残酷な言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、指先がさらに冷たく、小刻みに震えだした。あの時の恐怖が、まざまざと鮮明に蘇ってくる。  ――怖い。  どんな視線も、どんな言葉も、また僕を傷つけるのではないか。  踏ん張ろうとしても体は言うことを聞かず、胸の奥の悔しさと苛立ちがじわじわと重くのしかかる。どうして僕はいつも、こんなに弱いんだろう……。  ここまでにしよう。    このカメラマンに、僕は撮影されたくない。  興味本位で僕の過去を覗こうとする人に、花を通してでも自分を見せたくない。  だが……  あきらめたくない。  でも、ここにしがみつきたくもない――。  心の中で葛藤して立ち尽くしていると、低く凛とした声が背後から響いた。 「おい、君、撮影現場で被写体を動揺させるような発言をするなんて、プロ失格だ。即刻退いてくれ!」  振り向くと、黒いジャケットに身を包んだ男性が立っていた。鋭い目で代理のカメラマンをにらみつけている。  厳しい口調だが、怖さはない。  なぜなら僕が本当に言いたかったことを、この人が代弁してくれたから。  そして僕はこの人を知っている。  彼は宗吾さんの仕事関係の知り合いで……以前、新年の森永神社で偶然出会って、羽織袴を着た僕たちを撮影してくれた人だ。  佐藤さんが慌てて駆け寄る。 「ごめんなさい、葉山さん。驚かせてしまいましたね」  優しい声に、少しずつ肩の力が抜けていく。 「実は彼が今日の撮影を担当する正規のカメラマンなんです。昨日まで海外ロケで帰国便が遅れたので、仕方なく代理の方をお願いして……先ほどは何か余計なことを言ってしまったようで、本当に申し訳ありません」  佐藤さんが深々と頭を下げた。 「葉山さん、実は彼は、モデルの涼くんの専属カメラマンなんですよ。涼くんがとても信頼しているんです。葉山さんのこともきっとナチュラルに撮ってくださると思ってお願いしたんです」  えっ! モデルの涼くん?  洋くんの従兄弟の名前を聞くと、胸の奥がふっと安堵で温まった。  僕の心友―  洋くんが大切にしているのが涼くんだ。  その涼くんが信用するカメラマンなら、僕も心から信じられる。 「カメラマンの林です。あ、そうか……やっぱり君だったのか。俺のこと覚えている?」 「あ……はい、新年の森永神社で……」  林さんは静かに頭を下げ、真剣な目で僕を見つめる。 「あの時はありがとう。あの写真は辰起も気に入って部屋に飾っているよ。それにしても先ほどは不快な思いをさせてしまって申し訳なかった。この先はどうか安心してくれ。俺は君の魅力を引き出すことだけを考えるので、気負わずありのままでいて欲しい」 「もう大丈夫です」  顔を真っすぐ上げると、林さんは頷いた。 「そうか、君の心は強い幸せに守られているんだね」  その言葉は耳だけでなく、胸の奥まで届いた。  張り詰めていた緊張が、一気にほどけていく。  手の震えも、息を詰めた胸の奥の苦しさも、治まった。  もう一度、やり直そう。  あきらめたくない。  これは僕が選んだ仕事だ。  ふぅっと息を吐き、肩の力を抜いた。  そのとき、芽生くんが群衆の中から飛び出し、床に落ちた花鋏を拾って差し出してくれた。 「芽生くんっ」 「お兄ちゃん、大丈夫だよ。何があっても大丈夫だよ」  芽生くん、ありがとう。  君は僕の天使、最強のエールだ。  震える指で花鋏を受け取り、芽生くんの頭をそっと撫でる。  ――僕はもう一人じゃない。  宗吾さんと芽生くんがいて、僕を守ってくれる人がいる。  僕が守りたい人がいる。  林さんがサッとカメラを構えた。値踏みする視線ではなく、ただ僕のありのままを映そうとする温かさに満ちている。  深呼吸してから、ユリの茎を丁寧に切り、カーネーションを添え、花々の調和に心を委ねていく。  胸の奥には、安堵と落ち着きがゆっくりと広がっていった。

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