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しあわせ図鑑 24

 帰宅すると、家の中にはスパイスと玉ねぎがほどよく炒められた、温かい匂いが漂っていた。一気に緊張の糸が解け、空っぽだったお腹が、きゅるきゅると音を立てる。 「ただいま」 「おぅ! 瑞樹、お疲れさん。今日はカレーライスだぞ」 「わぁ、おいしそうですね」 「即席だけどな」  黒いエプロンをつけた宗吾さんが、白い湯気の立つ鍋をかき回しながら笑っている。その笑顔は、外の世界で背負っていた重さをそっと溶かしてくれるようだった。胸の奥が、ほんのり高鳴る。  芽生くんはもう席について、嬉しそうにノートを広げて見せてくれた。 「お兄ちゃん、見て見て~ しあわせ図鑑の最初のページが完成したよ」 「わぁ……これ僕なの?」 「うん、フラワーアーティストのお仕事を頑張っている、お兄ちゃん」  沢山の花に囲まれた僕が、腕まくりをしてハサミをしっかり握っている。そこには、今の僕が持つ夢と希望が、芽生くんの目を通してやわらかく描かれていた。そして、その顔はとても幸せそうに笑っていた。  芽生くんの汚れない瞳に映る僕の姿を、目に焼き付けたくなった。  夕食の最中、芽生くんが子供らしい素朴な疑問を投げかけてきた。 「そういえば、お兄ちゃんはどうしてハサミを落としたまま、ひろえなかったの? ボク心配しちゃったよ」  その瞬間、胸の奥がかすかに痛んだ。  でも……ごめん。それは正確には答えられないんだ。  最初のカメラマンから「あのストーカー事件の被害者ではないか」と思われたこと、好奇心に溢れた視線を向けられたこと。  あの出来事のことを、芽生くんには絶対に知られたくなかった。  あれは……僕が悪いわけじゃない。でも、やっぱり男としてのプライドを引き裂かれたことを知って欲しくない。  芽生くんの目に映る僕は、今の僕のままでいたい。  そう願うから、ひっそりと微笑むことしかできなかった。 「……ちょっと手が滑っただんだ……それで……緊張してすぐに拾えなくて、芽生くんが来てくれて助かったよ」 「……そっか、ならよかった!」  芽生くんはほっとした顔をして、またカレーを口に運ぶ。  心の奥で、痛みを隠している自分を僕は自覚していた。  芽生くんに嘘をついてしまった。  でも必要な嘘だ、と心の中でつぶやく。  僕たちの会話を、宗吾さんが静かに見守っていた。  無言のまま、でもやわらかい目で僕を見つめている。その視線は、言葉よりもずっと強い力で僕を抱きしめてくれるようだった。  冷えてしまった胸の奥が、じんわりと温かくなる。 「瑞樹、今日は先に風呂に入っていいぞ、ここは片づけておくから」 「でも……」 「いいから、いいから、今日は汗をかいたんだろ。さっぱりしてこい」 「あ、ありがとうございます」  脱衣場でシャツを脱ぐと、菅野が貸してくれたサポーターを、つけたままだったことに気づく。 「ありがとう、菅野……」  心の中でそうつぶやくと、自然に顔がほころんだ。菅野もきっと、今日必要だっただろうに。それでも貸してくれた。本当に優しい人間だ。  お礼は……あんこでいいかな?  菅野の恋人の小森くんが、ぴょんっと飛びつくほど喜ぶものを探してこなくては。  そんなことを考えて、ひとりでくすりと笑ってしまう。  それから泡を手に取り、腕から肩、胸元まで、そして下半身もいつもより丁寧に洗った。なんだろう、この感じ……胸の奥からうずうずとした感覚が駆け上がってくる。  今日は……宗吾さんとつながりたい。  ひとつになりたい。  そんな甘い欲を抱く自分に、少しの恥ずかしさを覚える。でも、こんなことを考える余裕を取り戻せたことが、嬉しくもあった。  鏡に映る自分と目が合うと、頬を染め、熟れた顔をしていた。  こんな表情をするなんて、僕も随分と大人になったな。  バスタオルで身体を拭きながら、また宗吾さんの顔を思い浮かべる。    今日は、本当は見てもらいたかったな。  宗吾さんも同じ気持ちだったのかな?  今日は、とても重要な会議だったと聞いている。  お互い別々の場所で精一杯頑張りましたね。  だから……今宵は愛を分かち合ってもいいですか。  僕はリネンのパジャマに身を包み、宗吾さんの元へ戻った。

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