1837 / 1863

しあわせ図鑑 27

 朝起きると、一晩中宗吾さんに深く抱かれたせいか、身体が鈍く重かった。 「瑞樹、大丈夫か。朝食の支度は全部俺がするよ」 「大丈夫ですよ。これくらい」 「だが、俺のせいで」 「くすっ、僕も同罪ですので」  どうやら宗吾さんの背中に夢中でしがみついた時、微かに引っ搔いてしまったらしい。彼の逞しい背中には、僕の爪がつけたらしい赤い筋が何本もついていた。 「ここ……痛くないですか、僕……夢中で……すみません」 「全然! むしろ勲章だ!」  にやりと笑う宗吾さんに、頬が火照った。 「も、もうっ、えっと、アイスティーを作ってきます」  寝室の扉を開けると、キッチンには夏の朝日が明るく差し込み、フローリングの光の小道を描いていた。  リビングの窓を開けると夏風が吹き込み、カーテンを爽やかに揺らした。  それから歯磨きをして顔を洗い、冷たい水で手を濡らすと、少し生ぬるい水に真夏を感じた。    キッチンに戻り、紅茶の茶葉をポットに入れて、沸騰したお湯を注ぐ。グラスには氷を沢山いれて、紅茶を注ぐ。  琥珀色の液体が揺れると、氷が小さくカランと音を立て、透明感のある光を反射した。    まな板を出して、レモンを薄く丁寧にスライスしていく。    すると、隣の椅子に座っていた芽生くんが身を乗り出す。 「わぁ、きれい。お兄ちゃん、ボクもレモンいれたいな」  芽生くんの声には、期待と興奮が弾んで混ざっていた。 「えっ、今なんて?」 「ボクもそろそろミルクを卒業して、レモンにしたいな」  僕は一瞬手を止め、深く息を吸い込むんだ。  胸の奥で、幼い日の記憶が波のように押し寄せる。  ――「ねえ、お母さん。ぼくもレモンがいい」  10歳の頃、母の紅茶を覗き込み、淡く揺れる琥珀色に目を奪われた。  そこには薄切りのレモンが浮かんでいて綺麗だった。 「そうねぇ、みずきはまだミルクが似合う年頃よ。だから、もう少し大きくなったらね」  母の笑顔につられて、幼い自分も微笑んだ。  楽しみは取っておこう。  だが、その約束は叶わぬまま、この世に置き去りにされてしまった。  そんな思いでがあったので、芽生くんが同じ言葉を口にした時、驚いてしまったようだ。  僕はそっとレモンを氷の上に落とす。  小さな泡が立ち、光に透けた輪がゆらりと落ちていく、  とても美しい光景だった。 「わあ、きれい……」 「どうぞ」 「いいの?」 「もちろんだよ」  芽生くんは両手でグラスを抱え、恐る恐るひと口飲んだ。  口の中でレモンティーのすっぱさが広がったようで、一瞬困った顔になったが、その後甘さと酸味が混ざった感覚にひかれて、笑顔がぱっとはじけた。 「あ、おいしい。これも『しあわせ図鑑』に書きたいな」  きっとアイスレモンティーは、透明感のある絵具で描かれるのだろう。  夏の光を映す琥珀色と小さなレモンの輪が、目に浮かぶよ。  あ、そうか……  僕が叶わなかった夢も、こうして次の世代に託せば生き続けるんだね。  アイスレモンティーは、過去と未来をつなぐ。  向かいに座る宗吾さんが、同調するかのように静かに微笑んでくれた。  言葉はなくても、全てを受け止めてくれる眼差しに、僕の胸はまたく満たされていく。    愛に満ちあふれた夏の朝。    僕は誓うよ。    これからも、叶わなかった夢を一つずつ、この二人とともに、僕の家族とともに叶えていこう。  

ともだちにシェアしよう!