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しあわせ図鑑 28

 いよいよ明日、私が所属する弁護士会で、小学生向けのサマースクールが開催される。模擬裁判や法律クイズなど、小学生が楽しめる企画が用意されている。  私も助っ人に行くし、甥っ子の芽生も参加する。    そう思うだけで、そわそわと落ち着かない。  心にひっかかるのは、幼い頃、芽生に対していつも威圧的な態度ばかり取って、怖がらせてしまったのを後悔している。  今はすっかり打ち解けてくれているが、やはり心配だ。  私は……少しは人当たりがよい人相になったか。    うーむ。  鏡の自分は相変わらず堅苦しく、窮屈そうな人間に見えた。 「美智、ちょっと駅まで買い物に行ってくるよ」 「こんな時間から? 一緒に行きましょうか」 「いや、大丈夫だ」  そんな理由で私はひとり、ショッピングセンターの眼鏡店を訪れた。    ガラス越しに反射する蛍光灯の光が、店内を煌びやかに照らしている。  気後れしつつも意を決し、銀縁の眼鏡を外して、鏡の前に立ってみた。  鏡の中には、どこか頼りない表情の自分がいた。  やっぱり眼鏡がないと締まらないな。  だが、やはり……  もう少し、柔らかい印象のほうがいいのでは?  明日は芽生以外にも沢山の小学生がやってくることだし、裁判官時代に培った「威厳」よりも、「親しみ」のほうが必要なのでは?  思い切って黒縁、丸眼鏡、べっ甲風と、いくつかのフレームを手に取ってかけてみた。だが、どれもしっくりこない。  鏡に映るたびに、どこか自分ではない誰かを見ているような気がした。  違和感が強い。  すると店員がそっと声をかけてきた。 「お客様、何かお探しのイメージはございますか?」 「……ええっと、そうだな……少し、優しい印象のものを。私は……周囲の人から、冷たく見えると言われることがあるので」  店員は、私の言葉に少し首を傾げた。 「差し支えありませんでしたら、ご職業をうかがってもよろしいですか?」 「……弁護士です」  その瞬間、店員の表情が少し明るくなった。 「あぁ、やっぱり! それでしたら――おかけになった眼鏡がよくお似合いですよ」 「これが、ですか?」 「はい。確かに少し厳しく見えるかもしれません。でも、それが信頼につながると思います。真剣な眼差しが一番、お客様にはお似合いですよ」  私はいつもの銀縁の眼鏡をかけて、もう一度鏡を覗き込んだ。  鏡の中の私は、確かに冷たくも見える。  だが、その奥に、誰かを守りたいと思う意志があるなら、それでいいのか。  なるほど、店員のアドバイスには一理ある。  銀縁のフレームをかけ直しながら、私は心の中でつぶやいた。 …… 明日は、少しでも伝えられるといいな。 法律が人を裁くだけではないということを。 ……  店を出ると、熱帯夜のようで、すぐに額に汗が滲んだ。生温い夜風に煽られると、眼鏡のレンズ越しに街の灯りがやわらかく滲んで見えた。  外見ではなく中身で勝負するぞ、憲吾。  そう自分を奮い立たせた。  ***  帰宅すると、リビングの灯りがやわらかく迎えてくれた。  静かなクラシックと、絵本をめくる紙の音。  美智がソファで彩芽を膝に乗せ、寝る前の絵本を読んでいるところだった。 「憲吾さん、おかえりなさい。遅かったのね」 「……明日の準備をしていたんだ」 「お買いものは無事に済んだの?」 「あぁ」  上着を脱ぎながら、私はふと壁掛けのミラーに映る自分を見つめた。  そして二人に向き直る。 「……なあ、美智は……私の、この銀縁眼鏡、怖くないか?」  美智は少し驚いたように、瞬きを数回してから微笑んだ。 「怖い? とんでもないわ。それは憲吾さんのトレードマークじゃない。見慣れてるし、きっと子どもたちも安心するわよ」  横で彩芽が顔を上げる。 「パパのぎんいろ、だーいすき! かっこいいもん!」  その言葉に、私の頬がデレッとゆるんだ。 「……そうか、そうか」  メガネの奥の目尻が、自然とやわらかくなる。  法律の世界では理を説く私も、この家ではただのパパだ。  それが嬉しいし、それが心地良い。  その時、スマートフォンが震えた。  瑞樹からの電話だ。 「こんばんは、憲吾さん。明日のサマースクールのことで相談がありまして、今よろしいですか」 「ああ、芽生の件か」 「はい。模擬裁判があると伺ったのですが……フォーマルな服装のほうがよいのでしょうか」 「いや、そんなに構えなくていい。芽生らしい服装で来るといい。背伸びせずリラックスして、明日は体験して欲しいんだ。変な先入観なく」  過去の自分がそうだった。    歪んだ先入観で瑞樹を拒絶してしまった。 「瑞樹、その……あの時は、すまなかった」 「え? 何で謝られるのですか。あの……憲吾……兄さん、いつもありがとうございます。実は明日は僕も仕事を早く上がれそうで。終わる頃に迎えに行きますね」  瑞樹が照れながらも『憲吾兄さん』と呼んでくれることに、口元が思いっきり綻んだ。  そして明日は瑞樹にも会えることに、心が跳ねた。 「それは嬉しいな。じゃあその後一緒に食事をしないか」 「え、でも……」 「ご馳走したいんだ。可愛い甥っ子と弟にな」  その瞬間、電話の向こうで声が入れ替わった。 「兄さん! 俺も早く上がれるから、よろしく!」 「なんだ、宗吾もか……わかった、全員奢るから」 「へへっ、瑞樹の甘えん坊作戦、成功だな!」 「えっ、宗吾さん~ そんな、僕は甘えん坊では」 「ははっ、瑞樹恥ずかしがるなって」 「もうっ」  電話の向こうから、笑い声がこぼれる。  私も肩を震わせながら、「まったくお前達は」と苦笑した。  美智がその様子を見て、そっと紅茶を差し出す。 「憲吾さん、明日、楽しみね」 「ああ、久しぶりに賑やかな一日になりそうだな」  今、眼鏡の奥の目は、さぞかし穏やかだろう。  こんなにも明日が待ち遠しいなんて――  心が柔らかくなると、毎日、嬉しい発見だらけだ。

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