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しあわせ図鑑 33
喫茶店の席で、宗吾が大盛りのナポリタンを頬張っていた。
湯気が立ち上る中、トマトソースの香りが鼻をくすぐる。
フォークを動かすたび、ほんのりケチャップの甘酸っぱい香りが漂った。
あいつは昔からこうして、食べ物にも全力投球だったな。
小さい頃から大食いで、年の離れた兄である私の分まで狙っていた。
私も育ちざかりで腹が空いていたので、頑なにあげなかった。
でも今思えば、兄らしく少し分けてやれば良かったか。
そんな小さな反省があるので、今日は宗吾には大盛りを注文してやった。
食べたいだけ、食べるといい。
三十を過ぎても思春期の子供みたいに、がっつく弟の様子が、なぜだか嬉しく感じた。
一方、向かいの席の座る瑞樹は、ケチャップが飛ばないようにゆっくり慎重に食べている。
ふむ、瑞樹らしさはこんなところにも表れるのか。
その丁寧な仕草が、可愛らしかった。
「美味しいか」
「はい、深みがあるトマトの味が美味しいですね」
「瑞樹は……その、弟さんと食べ物を取り合ったことはないのか」
ふいに……
私と同じように5歳離れた弟がいた瑞樹にも、聞きたくなった。こんな質問していいのか分からないが、今ならいいような気がして。
「夏樹は食いしん坊だったので、よく分けてあげていました」
懐かしさの奥に、ほんの少し寂しさが滲んだ表情だったが、柔らかく澄んでいた。
君は逝ってしまった弟のことも、こんなに自然に話せるようになったのか。
それほどまでに、瑞樹の心のガードは解けている。
瑞樹の隣で、芽生がわんぱくに食べていた。
ケチャップを頬につけて、「おいしい!」と大きな笑顔。
無邪気なその笑顔に、今日一日の疲れが癒えていく。
「芽生、今日は楽しかったか」
問いかけると、満面の笑みで頷いた。
「うん! 憲吾おじさん、ありがとう!」
瑞樹もその横で目を細め、微笑んでいた。
いい表情をするようになったな。
初めて会った時は私のせいで泣きそうに強張っていたのに。
――この姿を、瑞樹のご両親に見せてやりたいものだ。
地上の育ての親にも、天国のご両親にも。
「この後、夏休み期間はどんな風に過ごすんだ?」
そう尋ねると、芽生は目を輝かせた。
「来週は、函館にいくんだよね、ねっ、お兄ちゃん!」
瑞樹は優しく頷いた。
「はい。夏の函館は、僕にとって特別なので……」
その言葉に、宗吾もゆったりと微笑む。
三人が見つめ合うと、穏やかな空気がふわりと広がった。
それを見届け、私は静かに食後のコーヒーを口に運んだ。
――あぁ、いい家族だ。
宗吾は幸せ者だ。
宗吾たちと別れ、私も家路についた。
玄関の扉を開けると、ぱたぱたと小さな足音が近づいてくる。
「パパー!」
彩芽が手を伸ばして飛びついてくれたので、私はしゃがんで抱きしめてやった。
お風呂上りなのか、ピンクのパジャマを着てポカポカだった。
頬もリンゴのように赤くて、本当に可愛い。
「おかえりなちゃい、パパ、まっていたよぅ」
「あーちゃん、ただいま」
私は笑いながら、彩芽の髪を撫でた。
「なぁ、あーちゃんは夏休み、なにがしたい? どこか行きたいところあるか?」
少し考えてから、彩芽は私を見上げてにっこり笑った。
「パパといっちょがいい!」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
その言葉だけで、今日の疲れはすべて溶けてしまう。
「そうか、そうか、じゃあ、パパと一緒に、いっぱい夏を楽しもうな」
彩芽を抱きあげて、窓の外に目を向けた。
ポーンっと、遠くで花火の音が聞こえた。
夏の夜風がカーテンを揺らし、虫の声も聞こえてくる。
彩芽の瞳が、輝きを増す。
「あ、おまつり、いきたーい!」
――この夏は、いい夏になる。
宗吾たちにとっても、私たちにとっても。
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