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しあわせ図鑑 38

 オルゴール館を出て、そのまま赤レンガ倉庫を後にした。  橋の途中で、宗吾さんが振り返り、僕を見つめて笑顔になる。 「瑞樹、次はいよいよだな」 「あっ、はい」 「確か『葉山フラワーショップ』はこっちだったよな」 「はい、このまま道なりに歩いて下さい」  さっきから胸の内が、そわそわと落ち着かない。  葉山フラワーショップは、宏樹兄さんが営む花屋だ。  僕は10歳で葉山家に引き取ってもらってから、いつも兄さんに守って、助けて、支えてもらってきた。  最近は特に幸せなサプライズをもらってばかりだったので、今回は僕がその役をやってみたいと思った。  宗吾さんに話すと、「それはいいな! 宏樹泣いて喜ぶぜ」と賛成してくれた。だから、今回は事前に知らせず、そっと訪ねてみることにしたんだ。  驚いた兄さんの顔を思い浮かべると、自然と口元がほころぶ。  ――ところが。  お店の前に近づくと、なんだか様子が違った。  中からは子どもたちの声と、親御さんのざわめきが聞こえる。 「ん? なんだ?」 「様子が変ですね」 「あ、これか」  宗吾さんが指さした先、入口のガラスにはポスターが貼られていた。 『夏休み子ども花育アレンジメント教室 開催中!』 「あっ……今日だったのか」  兄さんから、函館市の教育委員会から、花育事業を請け負ったと聞いていた。でもまさか、開催日が今日とは。  タイミングが悪かった。  終わるまで邪魔にならないようにしないと。  店内の様子をうかがうと、兄さんが一人で右往左往していた。  花材を抱え、あちこちからあがる子どもたちの質問に必死に答えている。  いつも穏やかな兄さんの顔に、珍しく焦りが浮かんでいた。  ――あれ、みっちゃんは、どこだろう?  見当たらない。  その時、背後から声がした。 「もしかして……瑞樹くん?」  振り向くと、みっちゃんが優美ちゃんを抱えて立っていた。  優美ちゃんの頬は赤く、額には冷却シートが貼られている。 「すみません、突然来てしまって………あの、優美ちゃん、病気ですか」 「そうなの、高熱で病院に行ってたの。でも、今日は大切なイベント中だから、早く部屋で寝かせてヒロくんを手伝わないと」 「ママぁ……あついよぅ」  優美ちゃんのか細い声に、僕は思わず言葉をかけていた。 「どうか、優美ちゃんのそばにいてあげてください。熱がある時、子どもはママがいないと不安ですから」  それは……自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。  幼い頃、寂しさを抱えた経験のある僕だからこそ、優美ちゃんにはそんな思いをして欲しくない。 「……でも」 「なんとかします。だから、早く寝かせてあげてください」 「ありがとう、じゃあお言葉に甘えて……本当にいいの?」 「もちろんです。僕たちがいますから大丈夫です」  みっちゃんは少し涙ぐみながら頷き、優美ちゃんを抱えて店舗には寄らず、自宅の玄関から、そっと中へ入っていった。  僕は静かに店内を見渡す。  兄さんは子どもたちに囲まれ、声をかける隙もない。  だけど――今の僕に出来ることがあるなら、勇気を出したい。 ***  ふぅ、汗だらだらだ。  参ったな……。  最終準備をしょうと思った矢先に、優美が高熱を出していることに気づき、みっちゃんが病院へ連れて行ってくれた。  普段の花屋営業なら一人でもなんとかなる。  だが今日は、花育イベントの開催日だ。  3歳から5歳の子どもたちに花の説明をし、好きな花を選んでオアシスに挿してもらう内容で、皆、楽しそうに花を手にしているが――とにかく、手が足りない。  こんな時、誰か手伝ってくれたら。  いや、それより優美は大丈夫だろうか。  苦しそうな顔が脳裏に浮かぶ。  みちゃんには、優美のそばにいてほしい。  焦って、支離滅裂だ。    あぁ、こんな時、瑞樹が近くにいたらな。  胸の奥にそんな思いがよぎった時、ふと優しい花の香りが漂った。  この気配は……  まさか、まさか。  もしかして――!

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