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しあわせ図鑑 41
後片づけを終えた後、僕は葉山フラワーショップの店内をぐるりと見渡した。
花育のイベントの間は忙しく、店の今の様子を見る暇もなかったな。
あ……いいな。
壁一面に、花育イベントをお知らせする可愛いポスターや、季節のスワッグが飾られている。
明るくて、やさしい空間だ。
「とても居心地がいい空間ですね」
そう言うと、隣で宗吾さんが微笑む。
「ここは瑞樹の実家のひとつだもんな。……君のことも、待っていたように感じるよ」
くすぐったくて、胸の奥があたたかくなる。
そんな風に言われたら、今まで宗吾さんにはあまり語ることのなかった、小さな僕の記憶をまた話したくなる。
「……この家に引き取られてからは、両親と弟がいない喪失感に苛まれ……自分の悲しみに埋もれて、藻掻いてばかりでした」
「……」
「凍えそうな心の海で溺れそうになると、いつも五歳上の宏樹兄さんが飛んできて、震える体をぎゅっと抱きしめてくれました。僕に人のぬくもりを思い出させてくれました。だから……兄さんのおかげで、生きてこられたと言っても過言じゃありません」
宗吾さんが目を細め、少し潤ませながら頷いた。
「そうだったのか。やっぱり宏樹がいてくれたから、俺は瑞樹と出会えたんだな。よしっ、これからは、何があっても俺が守る。そして――君にも、俺と芽生を守って欲しい」
宗吾さんから求められるのは、対等な愛。
だから僕は宗吾さんがどんどん好きになる。
この人の大らかで懐の深いところが、何より好きなんだ。
僕が前に進みたくなったのも、明るくなれたのも――宗吾さんと芽生くんという、二つの太陽に毎日照らされて、栄養をもらっているから。
「帰る前に、優美ちゃんの様子を伺ってみるか」
「はい」
宏樹兄さんに案内してもらい、三人でそっと子供部屋の様子を伺うと、少し熱が下がったようで、顔色も良くなっていた。お母さんにぴったりと頬を寄せ、甘えるように眠る姿は、どこまでも愛らしい。
みっちゃんも疲れて眠ってしまったようなので、そっと扉を閉めた。
台所に戻ると、宏樹兄さんは手際よく家事をしていて、その光景はまるで、花の咲く家のようにあたたかだった。
「兄さん、僕たちそろそろホテルに戻るよ」
「そうなのか、せっかくだから、お茶でも飲んでいってくれ」
「それはまた今度にするよ。みんなが元気になってから」
みっちゃんと優美ちゃんとの時間を、今は大切にして欲しい。
「そうか、そうだよな。じゃあ、東京に帰る時間が決まったら教えてくれ、せめて空港まで見送りにいくよ」
「兄さん、そんなに気を使わないで。僕、また来るから。何度でも来るから」
「ありがとうな、瑞樹、あぁ何度でも帰ってこい。ここは瑞樹の実家でもあるんだ」
「うん」
駅前のホテルへの帰り道、僕の心は満ち足りていた。
「瑞樹、なんだか、すごく充実した1日だったな」
「はい」
芽生くんが僕の手をぎゅっと握り、顔を上げて笑った。
「ねえ、お兄ちゃん、きょうはすっごくたのしかったね!」
「うん、僕もだよ」
「あのね、出番があるっていいね」
出番か。
確かに。
僕は人前に立つのが苦手で目立つのも好きではないが、こういう出番ならいいかも。
隣で宗吾さんが小さく笑う。
「瑞樹の登場に、宏樹も心底救われたな」
夜風が通り抜け、手元に残った花の香りがかすかに漂った。
歩きながらふと空を見上げると、雲の切れ間に美しい月が浮かんでいた。
「過去は過去。今は今。僕は――今を好きになる」
心の中で再び呟くと、不思議と涙で視界が滲みそうになった。
葉山生花店から駅へ続く道。
通い慣れた道だが、とても新鮮な気持ちだった。
手の中の小さなぬくもりと、隣を歩く愛しい人。
今が好きになった僕が歩む道は、もうそれだけで満ち足りている。
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