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しあわせ図鑑 44
翌朝。
空が白み始めると、僕は自然に目覚めた。
久しぶりにぐっすり眠れたな。
東京は熱帯夜で寝苦しいので、函館の気候がありがたかった。
昨日の充実感と質の良い睡眠を取れたおかげで、すっきりしている。
横を見ると、宗吾さんと芽生くんは、まだぐっすり眠っているようだった。
規則正しい寝息が聞こえるこの静けさが、なんだか愛おしい。
――ああ、いい朝だ。
そっと起き上がり、カーテンを少しだけ開けた。
ホテルの窓の先には、故郷の海が広がっている。
函館の碧い海。
小さなバルコニーに出て、ひんやりと涼やかな海風を浴びた。
そういえば、夏樹が生まれる前、函館のホテルに泊まったんだ。
あれは夏休みの旅行だったのかな?
わざわざ宿泊して、お父さんとお母さんと僕で、こんな風にバルコニーから朝日が昇る様子を見たことがあった。
あんなに小さかった僕が、今は僕の大切な人たちと旅をしている。
生きていれば、また違う朝に出会えるんだね。
そっと心の中でそう呟いて、洗面台で顔を洗った。
鏡に、夏の間に自然に日焼けした自分の顔が映る。
僕は以前に比べて、ぐっと明るい表情になった。
「おはよう、瑞樹」
背後から声がした。
振り向くと、寝癖を手で直しながら、宗吾さんが僕の方に歩いてきた。
「早いな」
「目が覚めてしまって……もうすぐ朝日が昇ります」
「そうか、じゃあ、コーヒーでも入れるか。おっとその前に」
お・は・よ・うのキスを交わし、額を合わせる
これは僕たちの幸せな儀式の一つ。
宗吾さんが備え付けのポットのスイッチを押すと、水音が静かに部屋に満ちた。やがて部屋に香ばしい香りが漂ってきた。
「いい匂いですね」
「芽生も起きてくるかな?」
「おそらく」
そう言って顔を見合わせると、二人で小さく笑った。
きっと芽生くんも朝日を見たいだろう。
やがて、ベッドの上で掛け布団を抱えた芽生くんが、ふにゃりと目をこすりながら起き上がった。
「うーん、おはよう……もう朝なの? 今日はどこへいくんだっけ?」
「おはよう、芽生。今日は大沼に行く日だよ」
「そうだった! やったぁ!」
芽生くんの元気な声は、朝の空気を一気に明るく染める。
さあ、新しい一日がはじまる。
「わぁ、海がみえる! 函館の海、きれいだな」
「ほら、朝日が綺麗だよ」
朝の太陽は、まるで僕たちの未来を明るく照らしてくれるようだった。
昨日よりまた少し強くなれた自分を感じながら、僕も一緒に窓の外を見つめた。
それから、ふと、ポケットの中のスマホを取り出した。
画面を見つめながら、ためらいがちに指が動く。
――お父さんに電話しよう。
呼び出し音が二度鳴って、懐かしい声が響いた。
「おう、みーくんか」
その響きに、胸の奥がほっと緩む。
くまさんの声は、いつも温かい。
こんなに優しくてあったかい人が、僕のお父さんなんだ。
それが嬉しくて――
「お父さん、これから帰りますね」
少し照れながら言うと、電話の向こうで笑い声が弾けた。
「おお、そうか! もうすぐ会えるんだな。うれしいなぁ。あ、だが、そっちで朝ご飯はしっかり食べるんだぞ。宗吾くんは腹が減ると元気がなくなるからな。到着時刻が分かったら教えてくれ、駅まで迎えに行くから」
受話口の向こうで、くまさんがニコニコしている様子が目に浮かぶ。
「迎えに来てくれるの助かります」
「うーん、本当は函館まで今すぐ飛んでいきたいんだが、電車の旅、芽生坊が喜ぶだろう?」
その通りだ。
「……なんで、わかったんですか?」
「ははっ、みーくんも小さい頃、電車が大好きだったからさ」
その言葉に懐かしい記憶が浮かんでくる。
「あ……そうだったかもしれません」
すっかり忘れていたな。
函館から大沼までの電車の旅。
短い時間だったが、車窓を流れる美しい景色。
座席の温もり。
お父さんとお母さんの間にちょこんと座っていた幼い日の僕。
家族で電車に乗ると、真ん中に座れるのが嬉しかった。
「懐かしい思い出です」
小さくつぶやくと、くまさんが優しく答える。
「みーくんの過去は、全部今につながってるんだぞ。今度は、みーくんと宗吾くんの間に、芽生坊がいるんだろ?」
「はい!」
その光景を想像しただけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
あの頃とは違うけれど、同じくらい幸せな旅の始まりだ。
「気をつけて帰ってこいよ。大沼で待ってる。母さんも朝から張り切っているよ」
「はい。楽しみにしてます」
通話を終えたあとも、スマホを胸にそっと当てて、目を閉じた。
僕には『帰る場所』がある。
僕を待ってくれる人がいる。
お父さん、お母さん、ありがとう。
それだけで、心がやさしく満たされていく。
やっぱり今日はいい朝だ。
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