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しあわせ図鑑 46

「さっちゃん、そろそろ駅まで迎えに行ってくるよ」 「あら、まだずいぶん早いわよ」 「だが、電車が早く着くかもしれないし……いや、それはないか。とにかく行ってくる」 「えぇ、気をつけてね」  ふふっ、勇大さん、張り切っているのね。    その気持ち、よく分かる。  だって、もうすぐ瑞樹に会えるから。    さぁ、私も今のうちにドーナッツを揚げて、あの子たちを出迎える準備をしましょう。  森のくまさんのハチミツレモンコーティング  春摘み苺とホワイトチョコ  くまさんスペシャル ダークチョコ  甘いミルクチョコ    ちょっと作り過ぎちゃったかしら? でも明日から1週間プレオープンする『森のくまさんカフェ』の練習にもなるし、いいわよね。  やがてログハウスの前に、勇大さんの車が停まった。  私はエプロンで手を拭いて、駆けつけたわ。     車から最初に降りてきたのは、瑞樹だった。  青いジーンズに白いシャツ。  ラフな姿で、爽やかだった。  私を眩しそうに見つめて、可憐な笑みを浮かべてくれた。  あぁ、この子の優しい笑顔がまた見られて嬉しいわ。  ほんの少し日焼けしたせいか、前よりも逞しく感じるわ。    私は瑞樹の手を取って、さりげなく手の動きを確認し安堵した。    良かった。悪くなってないわ。 「瑞樹、お帰りなさい」 「お母さん、ただいま」  はにかむような笑顔、くすぐったい笑顔を、まっすぐ向けてもらえる幸せをかみしめた。  でも……澄子さんに向けられるはずだった笑顔を独り占めしちゃうのはもったいないわ。 「瑞樹、今日はいいお天気よ。空を見上げて」 「はい、あっ、白い雲が綺麗ですね」 「えぇ」  きっときっと見守ってくれているはずよ。  あの雲の上で……ご両親も弟さんも。  宗吾さんも芽生くんも一緒に空を見上げて、ニコニコと手を振っていた。  私が考えたこと、全部伝わっているみたい。  だから瑞樹は彼らが好きなのね。よーく分かるわ。 「さっちゃん、俺もいるんだけど」    ずっと瑞樹たちのことばかり見ていたので、勇大さんがちょっと頬を膨らませていた。ふふっ、可愛い人なのよね。とても頼もしくてかっこいいのに、こんな風に甘えてくれるの……すごく嬉しい。  この年齢になって、こんなに胸の奥がくすぐったくなるなんて。  全部、これは瑞樹が運んでくれた幸せなのよ。  すずらんの花のように、あなたは私に幸せを呼んでくれたのよ。 ****  大沼の空気は函館よりも、森の匂いが濃く懐かしい気分になる。  お父さんもお母さんも元気で、ログハウスは活気がある。それだけで安心するよ。  ふと横を見ると、見慣れない大きな白い車が横付けされていた。 「あっ、これが例のキッチンカーなんですね」 「そうなんだ。1週間だけのプレオープンだから、レンタルしてきたんだ。なんの変哲もない白い車だが」  確かに、真っ白だ。    それはそれでいいけど、もう少しドーナッツ屋さんらしくしてあげたいな。  そう思うと、宗吾さんも同じことを思っていたようだ。 「あの、俺が何か作りましょうか。ドーナッツの画像をポップにアレンジして印刷して車に貼るだけでも、塗装したように、いい感じなると思いますよ」  なるほど!    宗吾さんは広告代理店の営業だが、自分自身でポスターを作ることもできる。それに、ビラやキャッチコピーも得意だ。 「宗吾さん、とても良いアイデアですね」 「出しゃばりかな?」    するとお父さんが手を叩いてくれた。 「そんなことないぞ。宗吾くん、ぜひ頼む」 「じゃあドーナッツの写真あります?」 「あるぞ。さっちゃんのドーナッツなら毎回撮影しているからたんまりと」 「それデータでももらえますか」 「おぅ、ちょっと作業部屋に行こう」  わぁ、宗吾さんとお父さん、すっかり意気投合している。  なんだか嬉しい光景だ。 「お兄ちゃん、ボクたちも何かすることないかな? 何かしたくなるよね」  芽生くんからの提案に、僕も同意した。 「じゃあ、このキッチンカーの周りに、ちょっと座れるベンチを置こうか」 「ベンチを作るの?」 「作るんじゃなくて、ほら、あれを利用するのはどうかな?」 「わぁ、いいね!」  僕が指さしたのは、ログハウスの横に静かに佇んでいる大きな切り株だった。 「わぁ……これ、椅子みたいだね」  芽生くんが駆け寄って、小さな手で切り株の表面を撫でた。    その小さな手に、過去の思い出がまたひとつ蘇った。 「昔、僕もここで、お母さんのドーナッツを食べたことがあったよ」 「そうなんだね。ここに、お兄ちゃんも座ったんだね」 「うん」  僕は積もった葉っぱを払って、ゆっくり腰を下ろしてみた。  うん、まだしっかりしている。 「大丈夫そうだね。磨けばもっと綺麗になるよ」 「みがくの? ボク、やってみたい!」  芽生くんの目がきらきらしている。  君はいつも、とにかくやってみたいというパワーに溢れているね。  僕は自然と笑ってしまった。 「じゃあ、紙やすりを持ってこようか。お父さんの作業棚にあったから」 「うんっ! おじいちゃんに頼んでくるよ」  芽生くんはログハウスへ走り、すぐに大事そうに紙やすりを抱えて戻ってきた。 「見て、お兄ちゃん! これでいいかな?」 「うん、十分だよ。じゃあ、ここをくるくるって優しく擦ってみて」  芽生くんがぎこちない手つきで、紙やすりを動かす。  その度に、切り株の表面が少しずつ滑らかになっていった。 「わぁ、あれ? なんか木のいい匂いがする」 「そうだね。これが大沼の森の匂いだよ」  キッチンカーの白い車体を背景に、芽生くんが夢中になって切り株を磨く姿は、まるでおとぎ話のようだった。  ふと視線を上げると、宗吾さんが少し離れた場所でこちらを見て、柔らかく頷いていた。  あぁ、こんな時間も悪くない。  家族みんなで準備する『森のくまさんカフェ』  まだ試作みたいなプレオープンだけれど、こうして少しずつ形になっていくのが楽しいよ。 「お兄ちゃん、できたよ!」  芽生くんが磨き終えた切り株は、さっきよりもずっとなめらかで温かな色合いになっていた。 「すごい、芽生くんが頑張ってくれたおかげだよ」 「えへへ……ボク、このベンチ好き」  その笑顔を見て、僕の胸の奥は、またじんわり熱くなる。 「明日、誰が最初に座ってくれるかなぁ?」  芽生くんは嬉しそうに、切り株のベンチに座った。 「ワクワクするね」 「うん、明日が待ち遠しいね」 「お手伝いって楽しいね」 「うん」  額の汗を拭って空を見上げる。  森の風は、ほんのりと甘い。  お母さんのドーナッツの香りもしてきて──  この場所から始まる幸せを確かに感じた。    

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