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しあわせ図鑑 56
夕食を終えたログハウスは、穏やかな空気で満たされていた。
食器を片付ける音も、窓から吹いてくる風も柔らかい。
僕は食器を台所に運ぶ手伝いをした。
芽生くんというと、ラグマットの上でくつろいでいる。
時折目を擦っている。
あれだけ食べて沢山笑ったのだから、さすがに眠くなってきたのだろう。
「お兄ちゃん……」
小さく呼ばれたので振り返ると、芽生くんがためらいがちに僕を見ていた。
「どうした?」
「……もう、だめかな?」
その声に、胸の奥がふっと緩む。
僕は床に膝をついて、優しく促した。
「もちろん、いいよ」
芽生くんは安心したように、そっと頭を預けてくる。
もう小学五年生。どんどん手が離れていく時期だからこそ、旅先でこんな風に甘えてくれるのが嬉しいよ。
背中をゆっくり撫でてあげると、呼吸が次第に深くなり、肩の力が抜けていくのが分かる。
「……お兄ちゃんの手、あったかいね」
その一言を残して、芽生くんは眠ってしまった。
すやすやと規則正しい寝息が伝わってくる。
膝枕をしているので動けずにいると、お父さんがそっと視線を向けてくれた。
「俺が運んでやろう」
その声は低くて優しい。そして頼もしい。
芽生くんを軽々と抱き上げる姿を見送ると、胸の奥に温かなものが広がった。
宗吾さんも逞しいが、お父さんも逞しくてかっこいいな。
僕のお父さんなんだ……
扉が閉まると、大人の静かな時間がやってくる。
夜の気配が満ちていく。
僕は鞄から、一枚の額に入った写真を取り出した。
春の長崎で受賞した写真だ。
副賞として旅行券と一緒に、額装してもらったんだ。僕の名前も刻まれている。
「これ、長崎のコンクールで優秀賞に選ばれた写真です」
「おぉ、これがあの時の……今回の航空券は、この賞の副賞だったんだよな」
「はい、そうなんです」
「どれどれ、見せてくれ」
お父さんは写真をじっと見つめ、しばらくしてから目元を緩めた。
「あったかい写真だな。瑞樹の写真は、人の心を温めてくれるよ」
その言葉が、胸に静かに沁みていく。
「この写真……よかったら、ここに飾ってもらえませんか」
「え? いいのか。だがこれは額装されているし、大切なものだろう」
「はい、だからここに飾って欲しいんです。だって、ここは、僕が帰ってくる家だから」
くまさんは何も言わず、深く頷いた。
森の香りが、風に乗って届く。
大沼の森は僕の故郷。
ここは僕が生まれ育った家ではないが、天国のお父さんがアトリエにしていた大切なログハウスだ。
ここは、僕が帰ってくる場所だと、今回の旅行で改めて思った。
今日という一日が、穏やかに終わろうとしている。
「ありがとう、いつも瑞樹が一緒にいてくれるようで、嬉しいよ」
くまさんは早速写真を飾ってくれた。
お父さんとお母さんの撮った写真の横に並べて――
「ありがとう、居心地がいい場所に飾ってくれて」
****
芽生くんが眠りについてから、ログハウスは一段と静かになった。
時計の針の音さえ、やけに大きく聞こえる。
僕たちの泊まる客間に、宗吾さんがハーブティーを持って戻ってくる。
「お母さんが淹れてくれたぞ」
「美味しそうですね」
「林檎とカモミールだそうだ」
カップを受け取ると、指先が一瞬だけ触れた。
それだけで、胸の奥が小さく跳ねる。
一口飲むと、宗吾さんは静かにテーブルにマグカップを置いた。
そのまま宗吾さんの手が、僕の頬に触れる。
だから、僕もそっとマグカップを置いた。
「瑞樹、良かったな」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「はい、僕……帰ってきてよかったです」
「あぁ、俺もそう思うよ」
「宗吾さんと一緒に帰ってこられてよかったです」
宗吾さんに抱きしめられる。
そして顎を掬われ、唇をそっと重ねられた。
「んっ……」
ほんのりと林檎とカモミールの香りが広がっていく。
心落ち着く夜の始まりだ。
もう暗闇も明日を迎えるのも、怖くはない。
夜は深く、優しく更けていく。
この人の隣でなら、明日も前を向いて歩いていける。
そう、確信できるから。
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