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しあわせ図鑑 59
キッチンカーの扉を開け、黄色いのぼりを立て、『森のくまさんのドーナッツやさん』と書かれた木の看板を通りに出した。
『OPEN』の文字が、夏の光を浴びて輝いている。
さあ、いよいよスタートだ。
僕のお父さんとお母さんが夢見た、二人のお店がついに完成した。
どんな人が立ち寄ってくれるのかな?
お母さんのドーナッツを美味しそうに頬張る様子を、早く見たい。
ところが、人の流れはキッチンカーの前を素通りしてしまう。
湖畔へ向かう家族連れ。
自転車で駆け抜ける若者。
何人かの視線は一瞬だけこちらを向いたが、足は止まらなかった。
カウンターにずらりと並んだドーナッツを前に、お父さんもお母さんも無言になっていく。
10分、20分……30分……経過。
僕たちはその様子を、背後から心配そうに見守ることしかできなかった。
くまさんが腕時計を何度も見ている。
お母さんがエプロンの端で何度も手を拭いている。
「……まあ、初日だし、午前中はこんなものかもしれないな」
くまさんは明るく言ったが、少しだけ表情が硬い。
お母さんも笑っているが――
「そ、そうね。揚げたてだから、まだまだ大丈夫よ」
その笑顔は、ほんの少しだけ引きつって見えた。
二人の様子に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
張り切って、あんなにたくさん用意したのに――
お父さんから引き継いだくまさんの蜂蜜を贅沢に使った、特別なドーナッツなのに。
「宣伝が足りなかったかな?」
「……そんなことないわ……」
ふたりの落ち込んだ声が、静かに重なる。
僕は、どうしたらいい?
勇気を出して声を張り上げようか。
呼び込みをしてみようか。
でも、妙な緊張からか喉が乾き、うまく声が出ない。
勇気も、出ない。
その時。
「なるほど、蜜が足りないんだな」
宗吾さんが、腕を組んで呟いた。
「蜜……?」
「そうだよ。人を呼ぶには、甘い蜜が必要だろ?」
そう言うと、宗吾さんは大きなガラス瓶を手に取った。
それはくまさんの蜂蜜だ。
黄金色に輝いている。
宗吾さんはふっと微笑み、小鍋にひと匙落とし、弱火にかけた。
はちみつがじゅわっと溶ける音がして、ふわりと甘い香りが立ちのぼる。
それは空気を変える匂いだった。
森の匂いと混ざり、風に乗って広がっていく。
「……いいにおい」
通りすがりの母娘が、足を止めた。
小さな女の子がクンクンと鼻を鳴らし、母親の手を引く。
「ママ、あま~い、あそこから、おいしそうなにおいがするよ」
くまさんとお母さんの間に、どきどきと緊張が走る。
もしかして、買ってくれるかも。
「そうねぇ……」
もう少しだ。
僕に何か出来ることはないか。
何かしたいという思いが、ますます募る。
そのとき宗吾さんが僕を見つめ、ニカッと笑った。
「瑞樹の出番だぞ」
「えっ? 僕ですか」
「そうだ、瑞樹の蜜も振りまくといい」
「蜜って……?」
首を傾げると、芽生くんが教えてくれた。
「お兄ちゃん、ボク、分かるよ!」
「え?」
「あと必要なのは、お兄ちゃんの笑顔だよ」
「あっ……」
僕は、はっとする。
「芽生、正解だ。あとは瑞樹が微笑めばいい」
「僕の笑顔でいいんですか」
「あぁ、瑞樹の笑顔が必要だ」
「わ、わかりました」
誰だって最初からうまくはいかない。
それでも守りたい人の隣で、胸を張って生きてきた。
僕も、そういう人になりたい。
「僕にも出来ることがあるんですね」
「そういうことさ!」
僕はまっすぐ前を向き――
「いらっしゃいませ!」
自分でも驚くほど、明るく弾んだ声が出た。
すると、僕の笑顔につられて母娘も笑ってくれた。
「おいしそうなドーナッツ、2個ください」
「ありがとうございます!」
さっきまで凍っていた時間が、音を立てて動き出した。
甘い蜜は、エッセンス。
きっと、人の心を動かす魔法のエッセンスなんだ。
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