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しあわせ図鑑 60
「おいしそうなドーナッツ、ふたつください」
「ありがとうございます!」
「おいくらですか」
「600円になります」
「ママぁ、わたしがはらいたい」
「じゃあ、お願いね」
女の子の小さな手から、硬貨がころりとこぼれ落ちる。
くまさんの大きな手が、それをそっと受け止めた。
チャリン、と澄んだ音がした。
その瞬間、周囲の空気がふっとやわらいだ気がした。
まるで音色が合図のように、通りすがりのカップルが足を止める。
「何の匂い?」
「あ、蜂蜜じゃない?」
「コーヒーもあるみたい。ここでお茶してみる?」
「賛成!」
さっきは通り過ぎたふたりが、今度は足を止めてくれた。
入れ違いに、女の子がドーナッツの入った袋を大事そうに抱え、満面の笑みで歩き出す。
「ぼくもドーナッツたべたいな」
その様子を見ていた別の親子も、足を止めてくれた。
「並んでるってことは、美味しいのかしら?」
「きっとおいしいよ。パパ、買ってみる?」
「あぁ」
不思議だな。
一人が止まる。
二人目が迷う。
二人並ぶと、三人目が振り返る。
そんな流れが、ゆるやかに生まれていく。
くまさんとお母さんの顔色も、みるみる明るくなってきた。
やっぱり二人には笑顔でいて欲しいんだ。
だから僕の心も、自然と明るくなる。
その横で宗吾さんが、蜂蜜の濃厚な甘い香りをそっと風に乗せている。
「ドーナッツ、揚げたてですよ!」
「蜂蜜増量中ですよ!」
お母さんの手つきも、すっかり軽やかだ。
僕も一緒に、甘い蜜を届けよう。
最初の三十分。
誰も来なかった時間は、とてつもなく長く感じた。
僕だったら看板を下げて、隠れてしまいたくなったかもしれない。
けれど、くまさんとお母さんは諦めなかった。
気づけば、小さな列ができていた。
それに気づいたくまさんとお母さんが目を合わせ、ほっと息をつく。
「よし、これで軌道に乗ったな」
宗吾さんが腕を組み、満足そうにうなずく。
「宗吾さん、ありがとうございます。最初はどうなることかと……」
「俺も役に立ててよかったよ」
「はい、宗吾さんの蜜のおかげです」
「それを言うなら、瑞樹の蜜との相乗効果さ」
「僕は何も……」
「謙遜するな。瑞樹だって、役に立てて嬉しいだろ?」
ここは素直になろう。
そうだ、僕は最初から大好きなお父さんとお母さんの力になりたかった。
そのために夏の大沼に来たのだから。
「……はい」
「よし、いい顔だ」
宗吾さんが僕の頭をくしゃっと大きく撫でる。
その豪快で逞しい仕草と温もりに、胸の奥がじんわり温かくなった。
「瑞樹の笑顔は甘い蜜だよ」
さっきまでの焦りも不安も、ゆっくり溶けて蜂蜜色に変わっていく。
「おーい、瑞樹、宗吾くん、ちょっと手伝ってくれるか」
キッチンカーの中にいるくまさんから声がかかる。
「はい!」
「なんでしょう」
駆け寄ると、グラスが並んでいた。
大きな氷が浮かぶアイスコーヒーは、冷たくて美味しそうだ。
ドーナッツの甘い香りに、コーヒーのほろ苦い香りが混ざる。
ポンッとくまさんにトレーを手渡された。
「瑞樹、これを切り株のベンチにいるカップルのところまで頼む」
「はい」
「宗吾くんは、向こうの親子にこっちを運んでくれるか」
「了解です!」
僕たちがウェイターをする様子を、芽生くんがじっと見つめていることに気づいた。
少し手持ち無沙汰で、どこか寂しそうだ。
「あ……」
きっと芽生くんも手伝いたいのだろう。
けれど、お客様にお出しするものをこぼしたら大変だ。
それでも、芽生くんの気持ちが痛いほど分かる。
「どうした、芽生。元気ないぞ」
「……パパ、ボクもなにか手伝いたい」
「うーん、そうだなぁ」
宗吾さんも、珍しく言葉を探している。
その様子を見て、ふっと閃いた。
「少し待っていてください」
急いでログハウスに戻り、鞄の中から折り紙を持ってくる。
「芽生くん、あのコースターを作ってくれるかな?」
「え?」
「前に一緒に作った、四つ葉のクローバーのコースターだよ」
「あ! それならできるよ、しあわせコースターでしょう」
「うん、あれを、お客様にお出しするのはどうかな?」
「いいの?」
芽生くんの顔が、一気にぱあっと明るくなる。
すると、くまさんの頼もしい声が響いた。
「ナイスアイデアだな! コースターまで気が回らなかったよ。芽生坊、それ、ぜひ作ってくれ!」
「うん!」
芽生くんの笑顔が弾ける。
真夏の太陽みたいに、まぶしく。
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