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【6】

 マンションに面した道路を走る車のクラクションが聞こえ、ふわふわとしていた意識が急浮上する。  大智は、ハッと息を呑みこんで閉じていた目を大きく見開いた。そして、ゆっくりと視線を動かして、自分がいる場所を恐る恐る確認する。  見慣れたデスク、肌馴染みのあるスウェット、温かい羽毛布団……。自身はといえば、愛用のベッドの上で天井を見上げていた。 「あれ……。夢、だった……のか?」  レースのカーテンから差し込む光が朝日とは違い、少しオレンジかかって見える。枕元の時計を見ると午後六時になろうとしていた。  セリオと言い争った翌日、定時退社した大智のスマートフォンを振動させる彼からの着信を煩わしく思いながら電車に乗ったところまでは覚えている。その後、自分がどうやってこの部屋に戻ってきたのか記憶がない。  断片的ではあるがセリオと一緒にいたような気もする。だが、思い出そうとすると脳内を覆う霞が一段と濃くなっていく。 「俺……。会社……休んだのか?――あ、クレト」  クレトなら間違いなくこの不可解な状況を説明してくれると思い立ち、気怠い体をシーツから引き剥がす様に起き上がった大智は、寝室のドアを開けてリビングに向かって声を上げた。 「クレト! お腹空いたぁ!」  いつもならエプロンを身に付けた小柄なクレトがキッチンから顔を覗かせて「もう少しお待ちください」と、にこやかな表情で大智に応える。しかし、その明るい声はどこからも聞こえない。  シン……と静まり返ったリビングの中央に立ちつくした大智は、何かに憑りつかれたかのように自身のスウェットシャツを勢いよく捲り上げて下腹を覗き込んだ。  そこにあるはずの淫紋にも似た赤い奴隷の証は跡形もなく消えていた。ただ、セリオによって剃られた下生えだけはない。 「まさか……。まさか、だろ!」  慌ててシャツを戻し、廊下に飛び出した大智はセリオの寝室のドアを勢いよく開けた。そこには趣味を疑うような天蓋付きのベッドが――なかった。  床を覆っていた毛足の長い灰色の絨毯も、黒いレースのカーテンもなくなっていた。  がらんとしたフローリングの床には薄っすらと埃が積り、この部屋がしばらく使われていないことを意味していた。 「セリオ……。え……どして、いないんだ?」  もう一度リビングに戻って彼らの痕跡を探してみる。毎晩のようにワインを嗜んでいたセリオ愛用のワイングラスも、クレトが使いやすいと絶賛していた鍋もそこにはなかった。 「マジで夢オチとか……冗談だろ? でも、剃られた毛は……」  自身の下腹を確かめるように撫でながら大智はその場にぺたりと座り込んだ。  世間の波に身を任せ、揺られ流されるままに生きてきた大智。社会人となって厳しい現実を目の当たりにした時、『逃避』という形で自身が生み出したキャラクター――魔王セリオ。そんな彼に恋焦がれるあまり、自分の心の奥底にある理想や希望を積み上げただけの妄想だったのか……。 「そんな……。あり得ない、だろ」  ラノベも読まない。RPGも興味はない自他ともに認める現実主義者。  そんな大智があんなにリアリティのある想像だけでキャラクターを生み出せるかといえば疑問が残る。 「――きっと、クレトは買い物に行って、セリオは……」  花嫁候補の中でセリオに見初められた者がいれば婚姻は成立する。そうなれば、この世界に留まる必要はない。  花嫁と共に魔界に帰り、そこで未来永劫闇の統治者として君臨する。  でも――大智はそれを素直に喜べないでいた。  セリオの口から紡がれた愛の告白。一度目は大智を煽てるためのセリフだったかもしれない。しかし、二度目は――。 「俺、物凄く大切なことを忘れている気がする……」  長い夢の中で間違いなく自分はセリオと接触していた。そして……あの言葉を聞いたような気がする。  朧げな記憶でありながらも大智の心臓はトクンと音を立てた。 信じたい……。でも、すべてが大智の妄想であり夢だったとしたら。  奴隷の証がない今、契約は無効となり、大智がセリオを求める資格はなくなった。  泣き叫んで求めても、彼はその望みには応じない。 「セリオ……。俺、出来損ないだから……捨てられたのか? お前と……一緒にいるって、誓ったのに……」  脱力したまま、ふらりと立ち上がった大智の姿が夕日が差し込む窓ガラスに映った。  スウェットシャツのくたびれた襟元から小さな鬱血が見え、大智は瞠目した。  急いで洗面所に駆け込んでシャツを脱ぎ捨てると、首筋から胸、そして腰のあたりに無数の鬱血がある。 「これは……何だ?」  目を閉じると瞼の裏で、黒い髪を乱し大智の白い肌に唇を押し付けては焼けるほどのキスを繰り返すセリオのやけにリアルな姿が浮かんで、心臓がさらに早鐘を打つ。  もう一度鏡に映る自分の体をまじまじと見つめると、奴隷の証があった場所にも薄くはなっているが赤い鬱血が残っていた。 「夢じゃ……ない?」  良く見れば乳首も、いつもより幾分ふっくらしているように見える。そこを指先で触れて、即座に走った甘い痺れに小さく息を呑んだ。 「ん……っ」  大智は一度は脱いだシャツを急いで身に付けると、そのまま玄関に向かった。鍵とスマートフォンをポケットにねじ込み、素足にスニーカーを引っ掛けるようにしてドアを開ける。  そのフロアの廊下を見回し、セリオらしき人影がない事を確かめると足早にエレベーターへと向かった。 (まだ近くにいる……。奴隷の契約は……まだ!)  ゆっくりと降下するエレベーターに苛立ちを隠せない。一階に到着し扉が開くなり、大智はマンションを飛び出していた。  *****    正直なところ、セリオが行きそうな場所は魔界以外思い浮かべることが出来なかった。しかし、人間の大智がそうそう安易に足を運べるわけもなく、ただ闇雲にマンションの周囲を歩いていた。  スーツを着た長身の男性を見かけるたびに胸を弾ませたが、全くの別人と分かると大智は大きなため息と共に落胆した。  太陽が西に傾き夜の訪れを告げるかのように、空がオレンジから紫へと色を変える。  会社帰りのOL、自転車に買い物袋を積んだ主婦などが目につく時間帯だ。皆、家路を急ぎ、スウェット姿でうろついている大智には目もくれない。  今、ここにいる自分が夢なのか現実なのか分からなくなってきていた。その確証が欲しくて、大学時代から馴染んだ商店街へと足を向ける。そこには大智が求めている安らぎと活気が息づいている。 『F町商店街』と書かれたアーチをくぐると、看板のすぐ脇にある自転車屋の店主が大智の姿を見つけ、気さくに声を掛けた。 「おう! 大智君っ。そんな恰好でどうしたんだ?」  そろそろ店じまいの準備をしようかと出てきた初老の店主に苦笑いを浮かべた大智だったが、何かを思い出したかのようにシャッターに手を掛けた店主に問うた。 「あの……。黒っぽいスーツ着た、背の高い黒髪のイケメン見なかった? ホストみたいな顔の……」 「イケメン?――ここにいるだろ」  ニヤリと笑った店主を一瞬冷めた目で見据えた大智だったが「そうだね」と抑揚なく応え、小さくため息をついた。いつもなら上手く切りかえすことが出来るオヤジギャグも、今は心を冷えさせるアイテムにしかならない。  大学時代、よくこの店に通って自転車の修理を頼んだ。だから店主とは互いの顔色を見て話すような間柄ではない。 「――何かあったのか? 大智君らしくないなぁ」 「そ、そう?」 「悩み事があるんだったら、いつでもおいで。俺でよければ聞いてやるよ。役に立つかどうかは分からないが……吐き出すことで気持ちが楽になるっていうしなっ。どーせ、店も暇だし――おっと、こんなこと女房に聞かれたら何を言われるか。ははは……っ」  陽気に笑いながらシャッターを下ろし始めた店主につられ大智も無意識に笑っていた。  やはり、この商店街の人たちは明るくて暖かい。余所者でも気さくに接してくれ、気取った感じがない。 昨今では、自分に深く関わろうとする人を排除する傾向が強い。そのために近隣関係が希薄になり、コミュニケーションがうまくとれない大人が増えている。 ゆとり世代真っ只中である大智も本来ならばその中に含まれていたであろう。だが、この商店街のあるF町に住めたことは何より感謝している。 「――あ、そういえば! 魔王様の花嫁探しはどうなったのかなぁ。早く決めないといろいろ面倒な事になりそうだって言うし……。大智君はそういう話には興味ないか?」 「へ?」 「魔王様を知らない人間なんて、総理大臣の名前言えないくらい恥ずかしいことだからな。この世界じゃ一般常識だ」 「は?――あのっ! ちなみに……オジサンは魔王様に会ったことあるの?」 「あるわけないだろ! 高貴なお方にそうそうお目にかかる機会なんてないからな」 「会ったことないのに……その存在を信じるの?」  手についた埃を払いながら振り返った店主は不思議そうな顔で大智を見つめた。  その顔はまるで、当たり前であることを疑問視する大智への不信感のようにも感じられた。 「この世界は――現実(リアル)? 魔王様は……存在してる?」 「何、寝ぼけたこと言ってるんだよ。現実も現実。俺はここで何十年も自転車屋やってるし、儲けもまったく変わらない。ははは……っ。あーあ、このへんでドカンと宝くじでも当たらないかなぁ……。それこそ夢物語だな」  皺だらけのズボンのポケットから取り出した煙草を口に咥えたまま空を見上げる。その光景は大智が今まで見続けて来た店主そのもので何一つ変わらない。 「セリオがいる……世界」  大智はボソッと呟いて、店主に手を振って別れを告げると再び歩き出した。  店じまいが早いのは自転車屋だけではない。昔ながらの履物店や干物屋も早々にシャッターを下ろしていた。  どこからか香る醤油の焦げた匂いに、大智の腹がぐぅっと鳴った。人の往来もまばらになった商店街のほぼ中央で大智はピタリと足を止めた。  買い物を済ませた主婦の間を颯爽と縫うように大きなコンパスで優雅にこちらに向かって歩いてくる長身の男性に目を奪われる。  遠目でも上質だと分かる黒いスーツに綺麗に磨かれた革靴。艶消しのエンジ色のネクタイは見覚えのあるものだった。  少し長めの黒髪を風に揺らし、その視線は真っ直ぐ前だけを見つめていた。ただ、一つだけ不自然さを感じたのは片手に持った惣菜屋の白いビニール袋だった。 (あの男が買い物? まさか――)  穏やかな夕暮れの商店街には異質とも言えるその男性は、大智の存在に気付くとふっと薄い唇を綻ばせた。  そして足早に近づくと、長身を屈めて茫然と立ち尽くしている大智に迷うことなくキスをした。 「目覚めたか……。体は大丈夫か?」  一瞬、何が起こったのか理解出来なかった大智だが、自身の唇を啄むように離れていくセリオの唇を目で追いかけている自分にハッと息を呑んだ。 「セ、リオ……。本当に、セリオなのか?」  訝る様に目を細めたセリオは、大智を見下ろしながらわずかに首を傾けた。 「俺以外に誰がいる? それより、そんな恰好のままで出歩くとは……。それほど急な用事があったのか?」 「――用事なんて、ないけど」  大智は無意識に動いた体に抗うことなく彼の胸元に顔を埋めると、肩を上下させて大きく息を吐き出した。 「良かった……。夢じゃない」  心の底から安堵し、セリオが纏う上質なスーツの生地と甘い香水の香りにギュッと目を閉じた。 「皺になる」と怒られるのを覚悟で上着の裾を強く握りしめると、セリオの大きな手が大智の栗色の髪を優しく撫でた。 「どうしたのだ? お前らしくない……」  自転車屋の店主と同じことを言われ、大智はわずかに眉を寄せた。  そう――自分らしくない。その自覚はある。  なぜなら、目の前にいる魔王に抱いていた想いが恋だったという事に気付いてしまったから。  ノンケでマイペースなはずの大智の生活だけでなくセクシャリティまでも180度変えた人物――セリオ・ラドクリフ。 「――俺、捨てられたのかと思った」  肺一杯にセリオの匂いを吸い込みながら顔を上げた大智は、整えられた眉を寄せて感情の読み取れない灰色の双眸を細めている彼に言った。  上着を握る手に自然と力が入ってしまうのは、まだ都合よく自分が思い込んでいるだけなのではないかという不安からだった。 「捨てる? 誰をだ?」 「――俺。使えない奴隷だって……愛想尽かされたかと思った」 「使えない奴隷? そんな不要な者を自分のそばに置くことはしない。それに……目覚めのキスも、な」 彼の口から紡がれる言葉はどこまでも穏やかで、刺のようなものが見当たらない。  セリオの体温を感じ、キスを重ね、甘い言葉を囁かれても、大智は未だにすべてを受け入れることに踏み切れなかった。なぜなら、魔王である彼が買い物袋を持って下町の商店街を歩いていることがあり得ない。何より、普段の買い物や用事は側近であるクレトに任せっきりで、しかもそのお金は大智の財布から捻出されている。セリオ自身がお金を出すことはまず考えられなかった。 「――クレトは?」 「あぁ……。野暮用で魔界に出かけている」 「――っていうか、お前が買い物とか……あり得ないだろ? 財布はクレトから預かってるのか?」 「失礼な奴だな。俺だってポケットマネーで買い物ぐらいする」  手に持った白いビニール袋を大智の前に掲げて自慢げに笑うセリオになぜか違和感を感じて仕方がない。 「ポケットマネー?」 「お前が好きだと言っていた惣菜屋のメンチカツとコロッケを買った。たまには奴隷を労わねば、いつ逃げられるか分からないからな……」 「え? あのさ……俺、どうしちゃったんだろ。記憶が曖昧で……」  大智は何度も瞬きを繰り返して、すぐそばにある美しいセリオの顔何度も見直した。  いつもと変わらない……。でも、何かが違う。  自分から彼に触れることなどなかった大智が、自分の意思で彼に縋っている。それに嫌悪感を表すでもなく、むしろ上機嫌で大智の話を聞いているセリオ。  こうしている時間が酷く心地よく、何より安心する……。 「帰宅途中、電車の中で倒れたことを覚えていないのか?」 「倒れた? 俺が?」 「仕事の疲れが出たんだろう……。俺がお前をマンションまで運んだ。会社の方にはクレトが連絡をしてあるはずだ」 「セリオが? え……どうして? 俺、あんなに酷い事言ったのに……怒ってないのか?」  薄暗くなり始めた空にちらりと視線を向けたセリオは、小さなため息を一つ吐くと、大智の腰に手を添えて微笑んだ。彼の長い前髪が風に揺れ、闇の訪れを待ちわびる魔王の美しさに大智は目が離せなくなった。 「――何を見ている? 帰ってからゆっくり話そう」 「あ……いや。その……セリオってこんなに綺麗だったかなぁって」 「何を企んでいる? 褒めても何も出ないぞ」  少しキツメの口調で応えてはいたが、大智の腰を抱き寄せる手はどこまでも優しかった。  商店街のアーチを抜け、マンションへと向かった大智だが、ふと素朴な疑問にその足を止めた。  突然立ち止まった大智を訝しげに振り返ったセリオは、ため息交じりに言った。 「今度はなんだ? 早く帰るぞ」 「ちょっと、待って! ねぇ……セリオは惣菜屋で買い物したんだよね?」 「それがどうかしたか?」  大智は数歩先で苛立ちを隠せずに靴の踵をカチカチと鳴らしているセリオに駆け寄ると、何かを探るかのように上目遣いで見上げた。 「――セリオ。もしかして……惣菜屋のオバちゃんと結婚するのか?」 何とも言えない空気と長い沈黙が二人を包み込んだ。その沈黙を破ったのは、セリオのイラついた唸り声だった。灰色の双眸に怒りとも思える光を湛え、セリオは綺麗な唇を歪めた。 「なぜそうなる?」 「だって、そうだろ? セリオの姿は人間には見えない。ただ、花嫁候補となっている者だけは見えるって……。まあ、俺の場合は候補っていうんじゃなしに、偶然……セリオの波長と同調しただけなんだろうけど」  大智の言葉に、セリオは少し俯いて自身の額を指先で押えこんだ。大智の疑問に対し、どう返答すればいいのか悩んでいるのだろう。 主に対し、これほどプライベートに踏み込んだ事を公然の場で聞くことに抵抗がないわけではない。しかし、大智はクレトから聞かされていたことが頭から離れなかった。先程の自転車屋の店主もセリオの姿を知らない。それなのに、総菜店のオバちゃんは彼と対峙しているのだ。 「――もしかして、マジなのか?」  奴隷契約をした大智は、主の花嫁と一生付き合っていかなければならない。それが行きつけの惣菜店の看板娘(と言うには高齢だが)であれば、それなりの心積もりも必要になってくる。  しかも、彼女には夫がいる。浮気や不倫という概念をすっ飛ばして、いきなり寝取られ、魔王の花嫁にされてしまうわけだ。 「旦那さんいるのに……。お前ってやっぱり血も涙もない悪魔……」 「黙れ! 俺にも選ぶ権利はあるっ」  大智の言葉を鋭く遮ったセリオは。こめかみに血管を浮き立たせて鼻息荒く言い放った。 「――俺は女に興味はない。話せば長くなるが……お前の精液のお蔭で魔力が高まり、俺の力を察知できる人間が増えただけだ」 取ってつけたような回答ではあったが、セリオが言うと妙に説得力はある。大智も「そうなんだ」とひとしきり感心していたが、彼がボソリと漏らした言葉に動きを止めた。 「――まあ、愛する者と繋がれば自然とそうなる」 「え?」 「あ、いや……何でもない。くだらない話はもういいだろう。帰るぞっ」  セリオは不思議そうな顔で見上げる大智の手を掴むと、引きずるように足早に歩き出した。  大きな手から伝わる熱が大智の気持ちを穏やかにしていく。その反面、不安は募るばかりだった。  セリオの婚姻――すなわち、永遠に大智と結ばれることはなくなる。  言葉には絶対に出さないが、こうやっていつまでも手を繋いでいたい……。そう思う大智の願いも虚しく目の前に現れた見慣れたマンションの外壁。  大智はこの時ほど、商店街とマンションの近距離を恨めしいと思ったことはなかった。  *****    大智はセリオとの二人きりの食事を終え、ベランダで彼の晩酌につき合っていた。  空気はお世辞でも美味しいとは言えないし、電車や車が行きかう騒音からも逃げられない。それでも、隣にセリオがいるというだけで不思議と満たされていた。 「――ねぇ。セリオは昼間どこに行ってるんだ?」  不意にそう問いかけた大智に、ワイングラスを口元に運んだセリオが意味深な笑みを浮かべた。  相変わらず似合いすぎているヒョウ柄のガウンを着て、窓辺に移動させたソファで悠々と長い脚を組んでいるセリオを見下ろした大智はトクンと高鳴った心臓をグッと拳で押えこんだ。 (なんで、いちいちドキドキしてるんだよ……俺!)  長い睫毛を揺らし、胡乱気に大智を見上げたセリオは「気になるか?」と掠れた声で言った。 「そりゃあ、なるだろ! ウォーターフロントの高級タワーマンションに住んでるヤツがニートってことはないからな」 「フフ……。実はこちらの世界で五つほど会社を動かしている。そのほとんどは出資だけだが、役員報酬は定期的に入ってくる」 「マジかよっ! セレブじゃんっ」 「そうでもない……。毎月、数百万程度だ」 「アンタの金銭感覚狂ってる……。そんだけ貰ってて、なぜ奴隷の俺に寄生する? 今までの生活費、ちゃんと払えよっ」  セリオの収入を聞き、大智は息まいた。大智の新卒給料は比較対象外だ。それなのに、勝手にマンションに住みつき、食費までも出させられていた大智としてはどうも納得がいかない。 「――こちらでの用事が済めば全額返金する」 「ホントかよ……。そうやって、また俺を上手く丸めこむ気なんじゃないのか?」  缶ビールを飲みながらセリオを睨んだ大智は、ふと悲しくなる。  やはり用事が済めばお払い箱なのだろうか……。  急に黙り込んだ大智に気付いたセリオは、灰色の瞳を細めて言った。 「お前は奴隷だ……。手放すつもりはない」  まるで心を見透かされたかのようなセリオの言葉に、大智は小さく息を呑んだ。  そして――。  わだかまった想いを押し留めたまま、大智はゆっくりと言葉を選びながらセリオに問うた。 「あのさ……。花嫁が見つかったら魔界に帰るのか?」  聞きたくない、耳を塞ぎたい。そう思うのに自身の口は勝手に秘めたる心の内を露呈していく。 「俺……どうなっちゃうんだろうな。花嫁と上手く付き合っていけるのかな」  口に含んだビールが今まで以上に苦く感じる。口内に広がるのは爽やかな香りではなく、後味の悪い後悔ばかりだ。  ワイングラスを見つめたまま何も言わないセリオの顔がまともに見られない。  曇った空を見るふりをして上を仰いだ大智。次の瞬間、その心臓は驚きと恐怖で大きく跳ねあがった。 「――お前には言っておいた方がいいな。結婚相手はもう決まっている。ただ、正式な返事はまだ……もらえていない。彼がこの世界に留まりたいというのなら俺もその意向に同意する。この俺でも愛する者の想いを無下にすることは出来んからな……。愛しいと思うほど、自分が弱くなっていくのを感じる」  大智は空を見つめたまま、彼に悟られないように溢れそうになる涙をぐっとこらえた。 (大失恋じゃんかよ……)  セリオに対しての想い――それが恋だとやっと気づいたのに。  力任せに握りしめ変形したビールの缶を傾けて、生温い液体を一気に流し込む。喉を下りていくのが味も匂いもないただの水のように思えて、さらに虚しさが募る。  いっそのこと黙っていて欲しかった。しかし、セリオの事はどんなことでも知りたい。  今頃になって必死に足掻いても、もう大智には振り向くことはない。 「――そっか……良かったな。早く見つかって。俺さ……セリオのこと何も知らなくて、知ろうともしなくて、ホントに奴隷として失格だよな。主のことぐらい、ちゃんと理解しとけって……感じ。だから、消えちゃったのかな……奴隷の証」  大智の言葉に視線だけを上げたセリオは黙ったままだ。 「目を覚ましたら、なかったんだよ……。てっきり一方的に契約解除されたのかと思って……」  ズズッと小さく鼻を啜りあげた大智はセリオに顔を見せないように背を向けると、飲み干したビールの缶をクシャリと潰した。 「それに……アンタの部屋もなかったし。マジで捨てられたって……思った」 「あぁ……。あの部屋は今、改修中だ。花嫁と過ごすベッドルームにしては色気がなさすぎる」 「は? まさか、またあの部屋に作る気じゃないだろうな……っ」 「他にどこがある? 安心しろ。あれは魔界にある邸とリンクさせてあるだけだ。部屋自体を直接どうこうするわけじゃない」 「そういうんじゃなくて! 何が楽しくて新婚夫夫の喘ぎ声なんか聞かなきゃならないんだよっ。ここは俺の部屋だぞ! なぜ、わざわざ当てつけみたいにリンクさせる必要があるんだよっ」  手していた空き缶を力任せにセリオに投げつけた大智は、怒りがおさまらないというようにキッチンへ向かうと、冷蔵庫から新しいビールを数本抱えて戻るなり、即座にプルタブを引いて口元に運んだ。  強い炭酸がやりきれない思いと共に喉を刺激する。薄っすらと滲んだ視界でセリオがソファの肘掛けに凭れて微笑んでいるのが見えた。 「完全防音にするつもりだから、声は外部に漏れることはない。――ところで、大智。お前は何色が好きだ?」 「何でそんなこと聞くんだよ」  待望の花嫁も見つかり、これで魔界の未来は安泰。セリオの肩に重く圧し掛かっていたものが解消され、機嫌が良くなるのは分かる。しかし、そのことが大智を確実に追い詰めているということに、セリオは気付いているのだろうか。  ただの奴隷に気を遣う主はいない。だが、彼は大智に対して酷い仕打ちをすることはなかった。  下生えを剃るだの、自慰を禁じるだの、精液を提供するだのと無茶ブリがあったことは認める。でも、体を痛めつけるような行為は一切したことがない。  目に見える仕打ちではなく、精神的に追い込むやり方を好む者はいる。もしもセリオが後者だとすれば、大智はかなり見誤っていたことになる。 「――寝室のインテリアで悩んでいる。お前の意見を聞きたい」 「はぁ? そんなの花嫁本人に聞けよっ」 「あくまで『参考』にしたいだけだ」  胸が苦しい……。無駄に呼吸が早くなる。この息苦しさはビールを飲んだせいでは決してない。  このまま何も言わずどこかに逃げてしまいたい。そして、二度とセリオの顔を見ないで生きられる術を教えてもらいたい。  大智は彼に気付かれないように小さく吐息して、ここに来るまで繋いでいた手をじっと見つめた。  好きになれば離れていく。嫌いになれば思わせぶりばかり……。  人間を欺き、自分に都合よく操る魔族ゆえの性分なのか。 「大智……?」  甘さを含んだ低い声が名を呼ぶ。耳の奥でその囁きが何度も繰り返され、その度に熱くなってしまう体が疎ましい。  もっと冷静になって、頭を切り替えて笑顔で余裕のあるところを見せられる大人になりたい……。  しかし、今の大智にはそんな余裕も気力も残ってはいなかった。 「――青。そうだな……クレトの瞳の色、深海のような澄んだ青が好きだな」 「クレトの瞳……?」 「あとは、セリオの瞳も――。す……好きだ」  セリオにとっては何でもない事なのに、そう答えた大智は顔が急激に熱くなるのを感じて俯いた。 「好き」と言ったのはセリオ本人にではない。あくまで『瞳の色』なのだと、誰が聞くわけでもないが必死に自分に言い訳する。 「青と灰か……」  何かを思い描くかのように呟きながらワイングラスを口に運んだセリオを視界の端でとらえながら、大智はビールを片手に開けられたままのサッシの敷居を跨いだ。 「――ちょっと飲みすぎた。俺、寝るから」  抑揚なく言うと、考え込んだままのセリオに背を向けた。  こめかみがドクドクと脈打っている。まだ酔うほどでもないアルコールの量に頭痛さえ覚えた。  何も考えずに深い眠りにつきたい。でも――今夜は眠れる気がしない。 「大智……。キスを忘れているぞ」  自分の寝室のドアの前でピタリと足を止めた大智は、苦しそうに眉を顰めたまま唇を噛みしめた。 (これ以上は……マジで、壊れる)  そこまで大智の精神は追い込まれていた。今、セリオとキスをしたら……今まで堪えてきたものが決壊する。 「――花嫁にしてもらえよ。奴隷のキスなんか、嬉しくないだろ……」  ドアハンドルに掛けた手が小刻みに震えている。  嗚咽を堪えるたびに肩が震え、それを悟られないように体を強張らせた。 「――っふ」  堪えきれず小さな声が漏れた時、大智は力強い腕に背後から抱きしめられていた。  耳元に寄せられた唇から洩れる吐息とワインの香り。それは間違いなくセリオのものだった。 「――お前としたい」  鼓膜を震わす低い声に、大智の体の芯が共鳴するように甘く疼き始める。  俯いた拍子に零れた一粒の涙がセリオの手に落ちた。 「大智……」 「そ……そういうの、無理……だから。花嫁に嫉妬されて、殺されるの……イヤだから。俺、死ねないんだよ?一生、それを繰り返すの……イヤだから」  最後の方は喉が震え、声にならなかった。  セリオの唇が大智の項に押し当てられると、体中に残された痣がジン……と痺れはじめる。  あの痣はセリオが魔力を蓄えるために、気を失っている大智を欲情させた後だったのでは……と大智は思っていた。ただの『食事』でしかないはずの痣が徐々に熱を帯びていく。 「――放せよ」  感情のない声でそう言い放つと、胸の前で重ねられていたセリオの手を解いた。  もう一度重ねられることを願いながら……。  セリオは、構ってほしいと懐く猫のように頬を寄せ、まるで恋人にするかのような優しいキスを繰り返す。 「セリオ……」  声を震わせた大智の耳朶に冷たい牙をそっと押し当てたセリオは、大智の腰に手を回して自身の方に引き寄せると掠れた声を発した。 「限界の先にある苦しみ……それを今、味わっている」 「……」  大智はまたも自身の心を見透かされたような気がして小さく息を呑んだ。  これからセリオが向かうのは幸せな新婚生活への道、ただ一つ……。  そんな彼に本当の苦しみなど理解できるはずがない――大智はそう思った。 「――出逢わなければ良かったな」  ボソリと呟いた大智の言葉に、セリオがビクッと震えるのが分かった。腰に回された手が力なく離れていく。 触れていた場所から熱が逃げていく、その感じが堪らなく辛い。  自分はセリオを苦しめている元凶なのだ。  スムーズにいくはずの花嫁探しを難航させ、主に対して抱いてはいけない想いを抱えている。 「ごめん……」  詰めていた息を吐き出すと同時にそう言うと、大智は静かにドアハンドルを回した。

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