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【7】

 翌日、大智が目覚めた時、すでにセリオの姿は部屋にはなかった。  彼との日々の生活で徐々に増していった感情は、吐き出されることなく大智の中に澱のように蓄積し、自身の後悔と共に色を変えていった。  こういう時だからこそ仕事に打ち込んで、少しの間でもセリオの事を忘れようと思えば思うほど大智の気持ちは沈み、集中力を欠いていく。  気が付けば大智の中で育ったセリオへの想いははかり知れない大きさになっていた。  ポケットからスマートフォンを取り出しては、何度もその名を表示させる。  しかし、発信ボタンを押したところでなんと切り出せばいいのか分からない。その度にため息と共に電源を落とすことの繰り返し。  ただ一方的に想いを寄せていただけ……。その男の結婚が決まり、大智の恋は始まる前に玉砕した。かといって未練たらしく懐くのかといえば、自分を余計に貶めているようで悲しくなる。  体調不良と言って休んだ後でもあるせいか、同僚は気を遣ってくれる。その同情もまた大智を追い込んだ。 「――今日一日、何をしてたんだ……俺」  足どりも重くマンションに戻った大智を迎えたのは、疲れた表情を浮かべたクレトだった。  愛らしい幼い顔つきが別人のようにゲッソリし、持ち前の明るさをごっそり削がれている。  それでも健気にキッチンに立ち、夕食の準備に励んでいた。 「おかえりなさい、大智さま。今日はお早いお帰りですね」 「クレト、帰ってたんだ……。って、その顔! またセリオに扱き使われたのか?」 「世は働き方改革とか言ってますけど、魔界にもそれを唱える者が必要かもしれませんね……」  妙に年寄じみた口調でボソボソと呟いたクレトだったが、何かを思い出したかのようにハッと顔を上げて大智を見上げた。 「大智さま! そう言えば、お体の方はもう大丈夫なんですか? もう、いろいろと大変だったんですから!」 片手にオタマを握りしめたまま突然声を上げたクレトに、驚いた大智は苦笑いを浮かべながら先日の話を切り出した。 「会社に連絡してくれたんだって? ありがとう、クレト。俺、そんなに重症だった? 電車内で倒れたことはセリオから聞いたけど、その時の記憶が全くなくて……」 困ったような表情を浮かべ指先で頬をポリポリとかいた大智だったが、目の前で大きな青い瞳を更に大きく開いたままポカンと口を開けているクレトにその動きを止めた。 「え? 記憶がない?」 「うん。目が覚めたらベッドの上で……。それに奴隷の証が消えていて……。セリオに完全に見切られて契約解除されたかと思ったのに、そうでもないみたいで……。倒れた時に頭でも打ったのかなぁ」 そうは言っても、大智が目を覚ました時に頭部の痛みはなかったし、体中に残された鬱血以外目立った外傷も見当たらなかった。 過労で記憶喪失になるなんて事例は今までに聞いたことがない。もしあるとすれば、現実からの逃避行動としか思えない。 クレトは沸騰していた鍋の火を止めて、オタマをくるくると回しながら小首を傾けた。細い眉をきつく寄せて何かを考えている。そして、オタマの動きがピタリと止まった時、何かが腑に落ちたような顔でクレトが口を開いた。 「あ、は~ん。さてはセリオ様に記憶を操作されましたね。まったく……普段は何事も即決、即行動の人が、どこまで回りくどいことをしてるのか。ホントに面倒くさい人だな……」 「記憶の操作って……どういうこと?」 クレトはすべてを悟っているかのようにサラッと口にしたことであったが、大智はサラッと右から左へ受け流すことは出来なかった。 時間の狭間に身を置き、さも止まっているかのように見せることが出来るセリオのことだ。彼の魔力ならば記憶の操作など赤子の手を捻るくらい簡単な事だろう。 「あれ? セリオ様から何も聞いてないんですか?」 「ああ……。何も聞いてない」 彼の問いかけに素直に応えた大智を驚いた目で見返したクレトは、少し考え込むような仕草をして黙り込んだ。 大智は、セリオとの間にギクシャクした空気が流れていることを心配性のクレトには内緒にしていた。 ただでさえ多忙な彼をこれ以上悩ませるのは酷だと思ったからだ。 しかし、そんな気遣いを『大きなお世話だ』と言わんばかりに大仰なため息をついたクレトは、大智を見上げて真剣な眼差しで言った。 「大智さまも大智さまですよ。どこまで鈍感なゆとり野郎なんですか? 見ているこちらの方がヤキモキして悶絶死しそうです」 「――は?」 「ハッキリ申し上げますけど、魔王であるセリオ様にあんなことをされて、よく生きていられたと感心しますよ。フツーの人間ならとっくに死んでます」 「えっ?」 唐突に始まったクレトのディスり。その内容に今度は大智がポカンと口を開けた。 彼曰く、大智はフツーの人間では考えられないような事をセリオにされた……と。 セリオとの口喧嘩、それとも自慰の強要? しかし、そんなことは日常的なことであって、命に関わることではない。 それが何なのか……。大智には皆目見当がつかなかった。 クレトは小さく咳払いをした後で背筋を伸ばすと、オタマをマイク代わりに口元に近づけて、先程とは打って変わった穏やかな声で言った。 「――セリオ様と体を繋げたあなたは、もう奴隷ではないんです」 その言葉に大智は徐々に目を見開き、息を呑んだまま呼吸することを忘れていた。 大智の持つ記憶が間違っていなければ、セリオとの肉体関係はまだない。 セリオが大智に口淫することはあっても、大智から何かアクションを起こすことはなかった。そもそも、セリオを組み敷いて犯すなど、ノンケである大智には考えられなことだった。 「繋げた?――おい、ちょっと待てよっ! 俺がセリオとセックスしたってことか?」 「そうですよ……。ま、おいおい分かることではありますがざっと掻い摘んでお話すると、大智さまは帰宅中の電車内でセリオ様を快く思っていないクソ淫魔に媚薬を盛られ、犯されそうになったところをセリオ様が助けた――が、積もりに積もったあなたへの想いがついに決壊し、淫魔へのモーレツな嫉妬と相まって、魔界一と言われるそれは素晴らしい硬度を持つ巨根を大智さまの処女穴――この場合は尻穴になりますけど、躊躇なく突っ込んだんですよ」  クレトのあからさますぎるえげつない表現も気にはなったが、何よりその状況を全く覚えていない大智は自身がセリオに犯されたことに戦慄した。 それなのに、今は何も入っていないはずの後孔がウズウズと疼き始め、キュッと尻に力を入れる。 自身でも目にしたことのない秘部。そこをセリオに晒し、更に彼の――あの巨根を受け入れたという。 彼の寝室で天井を仰ぐ様にそそり勃った女性の腕ほどの太さのある長大なペニスが脳裏に浮かぶ。それを排泄に使う器官である後孔で受け入れたというのか……。 「そのあとも大変だったんですから……。いきなりセリオ様に呼び出されたと思ったら、お二人の精液まみれになった電車内をくまなく掃除して、乗客の記憶を消し、何事もなかったかのように完璧に仕上げてから時間を作動させて……」 「はぁ……」 「やれやれと帰宅してみれば、セリオ様の寝室から聞こえる矯声と喘ぎ声……。ドアを開けてみれば本来の姿を晒して野獣のように腰を振りまくるセリオ様と、脚を大きく開かれて尻穴に目一杯グロテスクなイチモツを咥えこんで快楽に泣き叫ぶ大智さまのお姿が……。ドS魔王様に犯されるか弱き人間の姿はそれは凄惨とも言えるほど壮絶な光景で、それでいて白い体を快楽にくねらせる大智さまは儚く美しく妖艶で……。身体から発せられる甘いフェロモンが二人の劣情をさらに掻き立て、乱れたシーツを汚す精液と汗。部屋中に舞い散る漆黒の羽。ああ……魔王と花嫁の初夜に相応しい、目眩く愛と官能の世界でした」 まるで官能小説の一節を朗読しているのではないかと思うほどクレトの説明は実に明確で、その光景が嫌でも浮かんでくる。聞いている大智の方が恥ずかしさに頬を染め、俯くほどだ。 「クレト……。もう……い」 あまりの恥ずかしさに饒舌なクレトの口を塞ごうと言いかけた言葉は、あっさりと無視された挙句、大智に口出す隙を与えないかのように鋭く遮られた。 「ま、そのあとはもっと大変だったんですけどね。一晩中狂ったかのように大智さまを抱き潰した部屋は惨劇のあとのような状態で。どんだけ射精してるんだってくらい部屋は精液臭いわ、爪でベッドはボロボロだわ、大智さまは意識ないわで後始末は私でしょ? 最悪としか言えませんよ」 「あ……。えっと……だから改修……?」 「そうでもしないと、また使える状況ではなかったんですよ。どんだけ欲求不満な巨チン野郎なんですかね……あの方は」  主を敬っているのかディスっているのか分からないクレトではあるが、彼の話によってすっぽりと抜け落ちていた大智の記憶のピースがあるべき場所にピタリと収まった。  大智の体中に残されていた無数の鬱血。それは一晩中、セリオが刻んだものであったのだ。 未だに薄らと残る情痕に触れ、大智は「んっ」と小さく息を詰めた。 そこに残る熱がその夜の記憶を思い出させるように疼き、大智の心臓を高鳴らせた。 「セリオ様にしては珍しく――いや、私が側近になって初めて見ましたよ。意識のない大智さまを甲斐甲斐しくバスルームに運んで、ご自身が腸内に出した精液を指で掻き出す姿。その間もキスを繰り返して……何度も大智さまの名を呼んで……」 うっとりと目を潤ませながら空を見つめるクレトに、大智は体の震えを抑えきれなくなっていた。 セリオの側近であるクレトが嘘を吐いているとは思えない。もしも、この話すべてが彼の妄想で、作り話だとしたら、天才肌の厨二病腐男子だと言えよう。世の腐女子がこぞって彼の同人誌を買い漁ること間違いなしだ。 ここまでクレトの話を聞き、セリオと体を繋げたことは間違いないようだ。しかし、体を繋げ奴隷ではなくなった大智の立場は一体どうなってしまうのだろう。 正直、これ以上の現実を突きつけられるのであれば聞きたくない。だが、そうなってしまったセリオと顔を合わせた時に、一体どんな顔で接すれば良いのか……。大智には困惑しかなかった。 それをセリオに直接聞くにはあり得ないほどの勇気がいる。でも、経緯をすべてを知っているクレトになら聞ける。セリオとのセックスを見られた以上、いまさら恥も外聞もない。 「――で、俺は?」 「魔王様と体を繋げることは永遠にそばに寄り添うことを意味します。――つまり、媚薬で理性がぶっ飛んだあなたは、セリオ様の誘導によって誓いをたててしまったのですよ」 「誓い?」 「はい。奴隷としてではなく、花嫁となり永久に魔族として生きることを」 「へ……?」 媚薬で自分がどれほど乱れていたのかは定かではない。だが、完全に理性を失う前に何かを言ったような気もする。それは大智にしてみれば夢の中での出来事であり、目覚めと同時に消えた儚い戯れ。セリオに記憶を操作された今、どう足掻いても思い出すことは出来ない。でも――。 「魔界の未来を見据えて花嫁候補を列挙した審官たちの反対を押しきって、異義を唱える者の首を刎ね、セリオ様はあなたとの婚姻手続きを強行した。その手続きで魔界中を飛び回っていた私を労ってください」 「え……。セリオからは『野暮用』って聞いてたけど」 呆れたと言わんばかりに脱力し、セリオ本人に面と向かって言えない思いを八つ当たりするかのように手にしたオタマを振り回したクレトは、底なしにブラックな主の態度に再び毒を吐き始めた。 「どこまで従者に対して鬼畜な方なんですかね……。そういう本人はどーせまたうだうだして、一番大事な大智さまからの返答を聞けないでいる。――っていうか。ぶっちゃけもう正式な手続きを終えてるんで大智さまに拒否権はないっ」 「ない。――って」 「魔王様の精を受け入れたあなたはもう人間ではいられない。その体は徐々に魔族として目覚めていく……。大智さまのですから、さぞお美しい花嫁となられることでしょう。このクレト……そんなあなたのお側でお仕え出来る喜びを噛み締めております!」 大智はオタマを胸にぎゅっと抱きしめて目を輝かせるクレトを見つめ、昨夜セリオが思わせ振りに言った言葉を思い出し、顔色を青からピンクに変えた。 『愛しいと思うほど、自分が弱くなっていくのを感じる』  あの傲岸不遜なドS魔王が自身を弱めるほど惚れこんだ相手は相当な人物であり、大智には到底勝てる相手ではないと半ば諦めていた。  その花嫁からの返答を待つ彼の心情を思うと、それが自分の事だったとは知らない大智は胸が締め付けられた。 大智に対してセリオが初めて垣間見せた弱さ。そんな顔を見せられたら、余計に辛くなるのは当たり前で……。結局、昨夜も互いに寄り添うことが出来なかった。  毎日顔を合わせてるのに、こういうことはなかなか切り出せない。正面切って攻め込んだところで玉砕する可能性もある。それなのに離れられない関係ほど辛いものはない。 闇の世だけでなく、この世界をも統べる偉大な魔王であっても、恋に関してはとてもデリケートで人間よりも脆いガラスの心を持っているのかもしれない。 セリオの大智に対する一途な想い――。自身の中で溜め込み、膨らみすぎたために変な方向に暴走してしまったようだ。 「――どうして素直になれないかなぁ」  ボソリと呟いた大智は、自身はもちろんだがセリオに対してもそう思った。  先に言った者が必ずしも勝者になるとは限らない。だから、お互いに用心深くなる。  警戒に警戒を重ねて想いは膨らむ一方、諍いやすれ違いが増え、その距離は確実に離れていく。 もう――離れたくない。 それが大智の率直な気持ちだった。 大智はハッと我に返ると、感極まり自身の世界にどっぷりと浸っていたクレトの肩をつかみ寄せて声をあげた。 「セリオはっ? セリオはどこに行った?」 「え、ちょ……っ! 離してください。大智さま、やだ……っ! いや……触らないでっ」 「今はそんなこと気にしてられないんだよっ! セリオはどこっ!」 奴隷から神聖なる花嫁へと格上げされた大智の体に触れることは今まで以上に許されない行為だ。セリオに知られれば即斬首刑に処される。 自身の命がかかっているだけに、これもまた今まで以上に必死な形相でもがきながら大智の手から逃れようとするクレト。そんな彼に、大智は鼻先を突きつけて問う。 「どこにいるんだよっ! 俺だって……言いたいこと、いっぱいあるんだよっ! 我慢してたの……アイツだけじゃ、ない……だぞっ!」 「明日……じゃ、ダメ……なんですかっ?」 「ダメに決まってるだろ! 今だよ、今っ! 魔界に行ってるんなら、すぐに呼び戻せ!」  とても『ゆとり』とは思えない緊迫した空気に圧され、クレトは顔を引き攣らせながら背中を弓なりに反らせて大智の体を両手で押した。 「魔界では……ない、ですぅ! 今は多分……会社の、方にっ」 「会社? 会社に行ったってセリオの姿を見える人なんて――あ! クレト、もう一つ聞いてもいい?」 「な、なんですか……」 「クレトの姿は今、人間に見えているのか? 花嫁候補や同調出来るヤツら以外でも見えるのか? 昨日、商店街の総菜屋でフツーに買い物してたから、俺はてっきりオバちゃんが花嫁候補なのかと思って聞いたら怒られたんだ……。なぜ、セリオの姿を見れるんだ?」  大智の手から逃げようとするクレトを再び引き寄せると、自分より身長の低い彼を上から見下ろして威圧する。  深海のような青い瞳が慄き、大粒の涙を湛える。これはパワハラではない――大智は自身を正当化しながら、なおも問い詰めた。 「なぜ見えるんだっ!」 「ひぃぃぃっ! そ、そんなの決まってるじゃないですかぁ。花嫁である人間と……契りを結ぶことは、この世界も……セリオ様の……傘下に、正式に……治まったってこと。その力は偉大で……魔族も可視化……する」 「俺と、セックスしたから?」 「そう……そうです! 大智さまとセックスしたから、丸見えになっちゃってるんですぅ!」  半ばパニック状態に陥りながら大智から逃れようとするクレトは、首を激しく横に振り泣きながら叫んだ。 「丸見え……って。何か俺たちのセックスまで見られたようで嫌な響きだな……。ま、いいかっ。それより、会社ってどこにあるんだよ!」 激しく体を揺すられ、首をガクガクと前後させるクレトに大智はさらに詰め寄った。 「セリオ様のマンションの近く……に。R貿易って……ご存知ですか?」 「知ってるも何も、めちゃくちゃ一流企業じゃん……。アイツ、そこで役員やってるのか?」 「正確には今度の株主総会で……正式に……就任する、みたいですけど。私、そのへん、良く……分からない」 なぜかカタコトで話すクレトから不意に手を離した大智は、会社から帰宅したままの姿で再び玄関へ向かった。 いきなり突き放されたクレトは壁に背中を打ち付けて、そのまま床にズルズルと滑り落ちた。 「ごめん、クレト! ちょっと出かけてくるっ! 戻ったら食べるから……っ」 「――お気をつけて」 力なく応えたクレトの声を聞くことなく部屋を飛び出した大智は、タイミングよく上がってきたエレベーターに乗ると一階のボタンを連打した。 「早く、行かなきゃ……。俺……セリオに謝らなきゃ……っ」  気持ちが逸る。早くセリオに会いたい。  その一心でマンション前でタクシーを拾うと、興奮冷めやらぬまま行先を告げた。 「R貿易まで、急いでください!」  大智の勢いに気圧されたのか、運転手もまた驚いた表情のままアクセルを踏み込んだ。  手を伸ばせば届くところに愛する男がいる。その手を掴んだ時、まっさらな気持ちで向き合える――大智は気を抜いたら爆発してしそうな想いをグッと胸に押えこみながら、窓に流れる景色を見つめていた。  その頃、大智のマンションでは――。 オタマを抱き締めたまま壁に凭れ、天井をぼんやりと仰いでいたクレトがボソリと呟いた。 「――ちなみにお二人のセックスはガッツリ乗客に見られてましたけどね……。結合部丸見えですよ……丸見え……。フフ……ッ」 その時の事を思い出してニヤけていたことなど、最愛の男のもとへと向かう大智は知る由もなかった。

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