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第8話

 僕は恭治のやり残した漢字のクロスワードをやっていた。仕事を終えた後なのに、文字と格闘するなんてウンザリだと言って、やりもしなかった僕。始めてみると意外にハマってしまい、スマホ片手に熟語検索しながら夢中になって解いていた。 「だから言ったろ?意外と面白いんだぞ」  恭治だった。5日ぶり?7日ぶり? 「恭治、今日はこっちに座って」  僕はソファを指差した。恭治は「どうして?」という表情を浮かべて立ったままだ。 「僕ね、聞きたいことがあるんだ。だから、ここに座って」  しぶしぶ座った恭治の横に自分も座る。 「恭治、僕に一番聞きたいことを言って。僕もちゃんと答える。何を聞かれるかわからなくて少し怖いけど。誤魔化しも嘘も言わない。だからここに座ってもらった」  恭治は僕から目を逸らせると拳を握った。 「恭治、怖がらないで。嘘は絶対言わないから」  恭治は僕をみながら覚悟を決めたように表情を引き締めたあと、苦々しい顔をして僕に言い放った。 「諭、あのキスしてた男は誰?どういう関係?俺はもう、いらない?」 僕の目の前が真っ暗になった。まさか……見られていたのか。 「俺じゃ、もうだめなんだな。俺はもう思い出か?」  恭治が、そんな顔する必要はない。僕は自分に猛烈に腹が立った。きちんと説明しておけばよかったことなのに!自分の弱さで、恭治に……どんな思いで僕が他の男にキスをするのを見たんだ?恭治が他の男とキスする姿を見てしまったとしたら?想像しただけで心が真っ黒になる。 「僕の弱さが招いたんだ、あれは」 「諭は、弱くないだろ。そんな言い訳聞きたくない」  そこで僕は爆発した。 「僕は強い男じゃない!恭治は両親との関係を断ってまで僕と一緒にいてくれる。でも僕はずっと前からゲイだってわかっている自分を誰にも言えていない! 沢山の人を裏切っている現実に潰れそうになる事だってある。誰もが瑞希さんみたいに僕を受け入れてくれるはずなんかないんだ。でも、それだって恭治のお姉さんだからかもしれないだろ?僕は恭治さえも裏切っているような気持ちになることだってしょっちゅうだった。僕は弱いんだよ!怖いんだ!」 「怖いからって他の男にキスするのか?」  射抜くような視線で恭治が僕を見つめた。黒い瞳の底に怒りが見える、そして怯えも。嘘をつかないと言ったのは僕だ。 「あいつは、僕の幼馴染なんだ。小さなころから僕に懐いている子で実家に帰った時には食事をしたりする。こっちに出張で来たと連絡があったから、外であうことにした。そしてずっと前から好きだったって……言われた」  僕はそこで言い淀む。でも恭治は許してくれない、投げかけられる視線が痛い。 「男同士だぞって誤魔化したんだ。僕は笑いさえした。バカみたいだろ? あいつは言った『あの綺麗な人はよくって、なんで俺はだめなわけ?』って。 出張は嘘だった。僕達の部屋から恭治が出てくるのも見ていた。一緒に住んでいることも知っていた」  遊びにいったついでに訪ねると言えば、母親は簡単に住所を教えただろう。 「幼馴染か。俺よりも付き合いが長いな」  そんなふうに言われて、躊躇していた気持ちが消える。そうだ、僕が向かい合っているのは恭治だ。自分の後悔や恥じる気持ちではない。 「聞いて、恭治。2番目でも3番目でも何番目でもいいって言われた。そんな意味のないことはするつもりもないし、お前のためにもならないと突っぱねた。それに複数と関係を持てるほど僕は器用じゃないし、恭治がいれば誰もいらないと伝えた。 諦める代わりにキスをしてくれと……言われて」 「頼まれたら、諭はするんだ」  恭治の視線と言葉が突き刺さる。わかっているよ、ちゃんと言うよ。 「してくれないと僕の両親に男と住んでいるってバラすって。応えてしまったら、どんどんエスカレートするだろうことも頭をかすめた。でも僕は時間が稼げるならと、その要求に応えた」 「せめてこの窓の下の電柱じゃないところで、やってくれても良かったんじゃないか?」 「……」 「諭はその頃から、俺の目をちゃんと見なくなった。他に好きなやつができたと言えないから、あんなふうに俺が見る可能性のあるところでキスをしたんだと理解した。何を見ても、諭が何を言っても、どうしても別の存在に繋がってしまって、俺はがんじがらめになった。一人で長く風呂に入っていれば、そいつのことを思える時間が欲しいんじゃないか、俺が寝入るまでベッドに入ってこない諭や、触れない諭や、あんな諭も、こんな諭も……俺は……」  恭治の目から一滴涙が落ちた。僕が泣かせた。僕が、恭治をこんなに悲しませて、絶望させて……最低だ。 「僕は恭治が両親に打ち明けていたことも知らなかった。でもだからってそんな子供じみた要求に怯えてしてしまったことの理由にはならない。黙っていることや言わないことは沢山ある。でも恭治に「隠していること」を抱えている自分が嫌だった。だから恭治の目が見られなくなった。僕が一番好きな瞳なのに。 何度も言おうと思ったんだ、でも許してくれなかったら?恭治が僕のもとを去ったら?あいつが抱いてくれとでも言ったら、そんな状況になれば言えたかもしれない。だからズルズル先延ばしにしていたんだ。でもそれによって僕達の関係は急激に悪化した。どんどん諦め始めて、終りを待つだけみたいに……ゴメン……謝ってすむことじゃないけど」 「……そいつと俺と、どっちが好きなん……だ……よ。諭……ぅ」  絞り出すような声で、子供みたいに解りきったことを聞く恭治。ようやく言えたことへの安堵と、恭治への想いが交錯する。  恭治、これを聞きたくて眠っていたの?他愛のない話も、これを言いだせなかったから?でも沢山話をしたよね、どれだけまだお互いに好きだったか思い出した。どのくらい好きかを言い合った。  君を見つけた日の自分の気持ち。初めてのキス。 「恭治、君がいればいいんだ。もう帰ってきてよ、僕は寂しくて堪らない」  僕は恭治を抱きしめた。細かく震える肩を腕で包む。 「寂しんだ。それに苦しい」  恭治は僕の胸を押し返し、腕の中からいなくなった。 「苦しいの?諭」 「うん。君がいないってことは怖くて、どうしていいかわからなくなる。だから君を想っていると、抱きしめたくなる、キスがしたくなる、話をしたくなる。でもいないと、空っぽで苦しくなるよ。とってもね」  僕の目から涙がこぼれた。この1ケ月、その苦しさをやり過ごせたのは、恭治がここに来てくれていたからだ。 「最近君があまりこなくなったから。怖かった」 「俺の気持ちがわかった?一緒に暮らしているのに、諭は俺がいないみたいにしていた。そうじゃないな、ただの同居人みたいだったよ。いや、そうじゃない。悪いのは俺も同じだったよ。ごめんな、諭。ちゃんと聞けばよかったんだ。もっと信じるべきだった」  僕は両手で顔を覆う。涙は止まらなかった。嗚咽をもらす僕を優しく抱きしめる腕がここにはある。その温かさはなんて優しく幸せなことなんだろう。 「お願い、戻ってきて……お願い……だから」 「うん、俺も諭に逢いたいから」  僕の好きな瞳をほころばせて、恭治の姿が消えた。  僕はずっと泣き続けた。自分の弱さでどれだけ恭治を傷つけたかを。小さなことで、こんなに大事なものを失くしてしまうところだったことに。  恭治を愛していることに。僕を許してくれた恭治に。  恭治はきっと病院で待っていてくれる。「俺も逢いたいから」ってそういうことなんだろ?  最後まで言われなくても、その先がわかるようになった。それに、腹が立たなくなったよ。

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