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第8話 砕けた花瓶

 静まり返った室内に苦し気な渡辺の乱れた呼吸音が不規則に響く。  佐久間が烈の肩越しに見た律は、一切の表情を消し去った冷たい面差しで渡辺を見つめている。そんな彼の表情を初めて見た佐久間は烈の腕にそっと手を伸ばした。 「烈くん? 律くんは何をしているの?」 「……戦ってる」 「え?」  バタバタと忙しく廊下を走る音は山岡達が戻ったのだろうと烈はドアを見遣った。  大きな音を立ててドアが開くと同時に、烈は佐久間の腕を張り付けたまま、まるで通せんぼをするかのように両手を肩の位置まで上げて止めた。 「ここから向こうへは行かないで。でないと特に榎本さんと加瀬さんはとんでもないことになるから……番、いないでしょ?」 「え、意味が解らない……烈くん、律くんを止めるために残ったんじゃないのか?」  目を丸くした榎本に烈は少しだけ申し訳なさそうな表情(カオ)を見せた。 「俺、ちゃんと止めてるよ? あのおっさんの汚い威圧と誘惑のフェロモンが佐久間さん達に降りかからないように。俺の背後は見えないだけで地獄絵図って感じかな……あのおっさん、少しは頭が働くみたいでさ。とっさにオメガ因子に働きかけて弱らせようと誘惑のフェロモン出したみたい」  アルファキメラであってもオメガ因子を持つならば強いアルファである自分のフェロモンに発情状態になるだろうと機転を利かせた渡辺は、理解不能な呼吸困難に見舞われながらも目の前の人を小馬鹿にした態度を改めない若造への怒りで威圧フェロモンと誘惑フェロモンを同時に放っていた。自分のフェロモンで番のいない職員が発情しようがそんなことは頭になかったのだ。いや、むしろ股を濡らして擦り寄ってくれば、この双子のせいでやたらと優遇されているように見受けられる緊急特務対策室の失態として部署ごと潰してやれると思っていたのだ――数分前までは。 「悪足掻き、まだ続ける?」 「き、さま……な、んでフェロモンが効かない? 私に何をしている? お前は何なんだ?」 「キメラだけど?」  短く答えた律の声は氷のようで、上手く状況把握のできていない者達の背中に冷たい汗が流れた――自分達の到底力及ばぬ領域で、何かとてつもなく恐ろしいことが起きようとしている。それを唯一止める能力を持つもう一人は目に見えぬ十字架に(はりつけ)られたかのように先程からピクリとも動こうとはしない。 「烈くん、おかしいじゃないか? 両方の因子に働きかけているなら君達にも少しは影響が出るだろう?」 「烈、ちょっと早いけどネタばらししちゃおうよ。あとね、烈は俺を見てなきゃとは言ったけど、俺を止めるとは一言も言っていないよ……ごめんね、騙し討ちみたいな言葉遊びになっちゃって」  既に冷えたコーヒーに手を伸ばした律が視線を渡辺から外すことなく声をかけた。その仕草は烈が表現した地獄絵図とはまるでかけ離れていて、いっそ優雅でさえあった。   「バラしちゃう? んーホント、計画よりめっちゃ早い……けど、仕方ないか。あのさ、俺達、もう番がいるんだよね。だからどれだけ強いアルファが誘惑フェロモン出してきたって意味ないの。それに今の律は、百パーセントのアルファでオメガだから、あのおっさんじゃ太刀打ちできないよ」 「は?」 「あはは……みんな口開いてる! 大丈夫だって。殺したりなんかしないから。俺達大学も行きたいし犯罪者にはなりたくないしさ。あと、避妊もちゃんとしてるから安心して。ねぇ、山岡さん、俺達、親に学資保険解約されて、おまけに保険金もかけられて命狙われてるっぽいんだけど、大学行きたいとかまだ死にたくないとかって高望みなのかな?」 「そんな……」 「烈の言ってることは本当だよ。父親も母親も違う相手とよろしくヤってる。“普通の”子供が欲しいのかもね。ねぇ、おっさんにも聞きたいんだけどさ、アルファキメラとかオメガキメラとか、何を見て言ってんの? 数値? じゃあ、何をもってパーフェクトキメラっていうの? アルファ因子とオメガ因子が綺麗に半分コ?」 「……お、お前ら、みたいな突然変異でアンバランスな因子数値を持たず、一定の……うぇっ……一定のより強いフェロモン数値を出せる……っがぁ……」 「一定の数値って、それってただのアルファかオメガじゃん。強いか弱いかなんて知らないよ、個性ってヤツじゃないの? 現におっさん、俺に負けてるの実感してるよね?」  その問いかけに渡辺は素直に頷くことはできなかった。  呼吸が苦しいと思ったあの瞬間から、動悸は激しく、視界の中にありもしない光が飛び、自分でも嗅ぎとれるほど嫌な臭いの汗が止まることなく溢れ流れている。正直、床に膝をついて横になってしまいたいほどだった。だがそれをなけなしのプライドと目の前に座った双子の片割れの目が許さないのだ。 「……おっさんの意識があるうちに教えておくね。アンタ、今から散々内心バカにし続けて道具としか見てなかったオメガになるよ。そのうち意識飛ぶと思うけど、次に目が覚めたら人生初めての発情期(ヒート)が来るから、局内のアルファに迷惑かけないようにね?」  くすくすと愉しそうに話す律の目は相変わらず氷の冷たさで、渡辺も山岡も佐久間も――律と烈以外の者は誰一人として律の言葉の意味が飲み込めていなかった。 「なに? ぽけっとして、バカなの? そろそろ頭の中が回ってきた? 自分から威圧フェロモン出しといて、それを押さえ込まれたってことはより強いアルファのフェロモンを浴びたってことでしょ? アルファ同士でフェロモンのぶつけ合いしたことくらいあると思うけど、オメガになったあんたは威圧も威嚇も耐性ないでしょ? 当然アルファだったんだからオメガ用の抑制剤だって飲んでいない、ってことはどうなるかなんて、解るよね?」  あぁ、おかしい。  そう言うと律は再びコーヒーカップを傾け、親指で形の良い桜色の唇をそっと拭った。 「俺はおっさんと律のアルファフェロモンが佐久間さんと加瀬さんに届かないように見えないバリア張ってたってワケ。あ、今は四人になったけど。特に律のフェロモンはどう作用するか解らないしさ……山岡さん達には山岡さん達の言い分とか計画とか思惑とか色々とあると思う。それは仕方ないことだと思ってるし、それに、ココの人達にはいつも良くしてもらったからさ、俺達にだって守りたいモノってのがあるんだよ」    そう伝える烈の背後からは、何事かを呟く渡辺の声がが羽虫の羽ばたきの如きか弱さで発せられていたが明瞭な言葉として山岡達へと届くことはなかった。  ただの負け犬の啜り泣きだと律は鼻で笑い飛ばし、残りのコーヒーを一気に流し込み、カップを置くと同時に立ち上がった。   「ね、山岡さん」  ゆったりと歩み寄ってくる律から漂うただならぬ気迫に、数々の悲惨な現場を見てきた山岡が思わず生唾を飲み込んだ。加瀬は最初の烈の告発時から口元を両手で押さえ、涙目になっている。 「俺達は確かに偶然できた突然変異体なんだと思う」  独り言のようなそれに思わず山岡は頷いた。ベータ性の両親からアルファとオメガが産まれたなど聞いたこともなかったうえ、その双子はどういうわけか二つの因子を体内に持っている。検査でそれが判ったあと、隔世遺伝かと遡れるだけ遡って二人のルーツを探ったのも緊急特務対策室だ。  結果は隔世遺伝でも先祖返りでもなかったわけだが。 「義務のバース検査を受ける前に俺達は自分達がどこかおかしいって気付いてたんだよ」 「そう……先にヒートを迎えたのは俺だった。教科書の知識はあったけど、それでもやっぱりワケわかんなくて身体が熱くてどうしようもなくなった時に律が言ったんだよ。おはよう俺のオメガって。嬉しかったなぁ」 「その直後に今度は俺がヒートになったんだ。アルファとして烈を抱いた直後にね。そうしたら今度は烈が、おはよう俺のオメガって言うんだから笑っちゃったよ。笑って笑って俺達は――」  すうっと伸びた手が烈のネックガードを外す。衣擦れの音を残しながらそれは床へと落ちていった。次に律は自分のネックガードに手をかけると若干乱暴にそれを剥ぎ取り、山岡達に背を向けると襟足にかかった髪の毛を掻き上げ、しっかりと刻まれた噛み痕を見せつけた。  まるで鎖のようだとそれを見せられた全員が言葉にせずともそれぞれが胸の内で思った。上下計四つの犬歯の深い噛み痕をつなぐように続く即切歯や中切歯の輪の中央に沈丁花に似た紋様までもが浮かんでいた。   「ふふっ俺達もね、びっくりして学校の図書館だけじゃ足りなくてココの文献室まで漁っちゃった……それでも“運命の番と呼ばれていたとされるが現在では存在を確認できない”“番契約に対する悪印象を和らげる為のロマンチシズムを色濃く残した創作物”とか眉唾だとか全否定。でも俺と律の項にはお互いの歯形があって、紋様も浮かんだ……俺達にとってはそれで充分……」 「そう。充分だったんだ。山岡さん達も優しくしてくれた……俺達はね、政府の方針とか興味ないんだ。俺達をどうにかして利用しようとしてることも理解してる。でもただのアルファとベータとオメガに何ができる? 俺達はその気になれば自分達以外の人間全てを壊せるんだよ? アルファからオメガへ書き換えるなんて俺達以外の誰ができる? 政府はその技術を持ってる? 持っていないよね? 数値なんて関係ない、いくらでも変えることができる。それがキメラってことだよ。だからさ、お願い。邪魔しないでよ」  振り向いた律の目には涙が浮かんでいた。 「そんなに俺達の遺伝子情報が欲しいなら好きなだけ使えばいいよ! もうサンプルはいっぱいあるでしょ? モラルなんて無視して俺達のクローンでもなんでも作ればいい!」 「そんなことはしない!」 「そう? アルファキメラにオメガキメラにパーフェクトキメラだっけ? 勝手にレッテル貼って、似たような相手を探すからって……この国のために産めよ増やせよ? そんなの俺達は興味ないんだ。政府に取り入ろうとも思わないし、過剰な恩恵が欲しいわけでもないんだよ。それとも望んだわけでもないのにキメラに産まれたからって政府の顔色伺って何でもかんでもハイハイって従わなきゃいけないの? でないと親だけじゃなく政府にも要らないって殺されちゃう? オメガだからって差別されて、キメラだからモルモットにされて当然なの?」  今まで蔑まれてきた悔しさや、投げつけられてきた不躾な視線や乱暴な言葉の数々を思い出し、行き場のない不安に駆られ、自分でも意図していない厳しい言葉を不適切な相手に向けて放っている自覚はあった律だがどうにも言葉を止められずにいた。 「邪魔しないで。邪魔しないで。俺達はただ普通に生きたいだけなんだよ。バース性なんて関係なく、普通に学校に行って受験勉強して、たまに愚痴ったり、友達とカラオケ行ったり……」 「この国じゃそれができないっていうなら、海外へ……って考えたんだけど、それしちゃうと山岡さん達がどんな目に遭うかって律に言われて、亡命は諦めた」  諦めたという烈の言葉に山岡一同は安堵の息を漏らした。保身ももちろんあったが、言葉の問題や偏見などを考えれば二人には目の届く範囲――それが無理なら、せめて国内にいて欲しいと誰もが願っていたからに他ならない。 「……こんな国は正しくないね。君達は望む人生を歩む権利がある。大学に行きたいなら行っていい。生きたいと願う君達を脅かす存在がいるというのなら、俺達が全力で守ってみせる……それでも……それでもやはり未だにオメガ性の地位は低いし、君達という稀有な存在は国とっては切り札だ。あぁ、クソくだらないよ! 俺達もその国に飼われているんだから! それでも君達が望む普通を与えてあげたいよ!」  半ば叫ぶような山岡の言葉に、ついに律の目から涙が溢れた。  律には自分の頬を伝う涙が嬉しくて溢れたものか否か区別がつかなかった。ただ、山岡の言葉や自分に向けられる佐久間や榎本、加瀬の潤んだ目に漠然と赦されたような気がした。 「俺達は……」 「この……バケモノがあああああ!!」  オメガへと変貌を遂げ、口の端からだらしなく涎を垂らす渡辺が鷲掴み、混乱の極みの中振り回した陶器の花瓶が律の側頭部を殴り飛ばし、バラバラに床に散った破片の中へ血塗れの律が崩れ落ちた。  律は朦朧としつつも、錯乱する渡辺に憐みの視線を向けた。そして自嘲気味に囁く。 「……バチって、当たるんだよ……人間壊し続ければ、そりゃ、こうなる、よね……」  甲高い加瀬の悲鳴と医務室へ電話をかける榎本の低い声、大学病院に勤めるパートナーへ応援要請をする山岡の珍しく焦った声を聞きながら、律はそっと目を閉じた。

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