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断ちきれない未練
どうとでもなれ、と捨て鉢な自分が九割。でもやっぱり豪から離れたくない。ベースがここにあり、僅かでも繋がりがある今を手放したくないのが一割ってところだろう。冷静に自分を見つめると。
豪がどんなつもりでも、俺自身がほかに愛せるひとをもたないんだから、だったら今のままでいいじゃないか。
どろどろに溶けた黒い思いの、ねばついた欲が、俺をここに縛り付けている。
自由になりたい。もう、豪のことは諦めたい。ひとかけらも希望がないのに、いつか豪から止めようと言ってくれるまで、或いは俺の元へと来なくなるまで――ただ、欲されるようにすればいい。
そんな未練が断ち切れず、だらだらと本社勤務にしがみついていた。
一週間が過ぎて、また戻ってきていた山根と食堂で相席した。和風の定食を選んだところまで一緒で、奇遇だなと言い合いながら、窓際の席に向かい合う。
ふたりともまずは味噌汁から口を付けて、それから焼き魚へと箸が伸びた。山根はくすくすと笑った。
「すげえシンクロ」
「だな」
何だかおかしくなって、俺も口元を緩める。それを見て、山根が眉を下げた。
「悪かったな、変な現場斡旋することになっちまって」
「え、別に山根のせいじゃないだろ」
それにこれは、多分だけど俺以上の適任がいない。係長はかなりぼんくらだけど、たまたまだとしても、この人事は間違っていないと思う。
「そういや聞いたことないけど、安原ってこっちに彼女いる?」
脈絡もなく問われて、ほうれん草のお浸しを摘んでいた箸をそのまま口に運んだ。咀嚼しながら視線を合わせると、雑談にしては真剣そうな目つきだった。俺がゆっくり噛んでいるのを眺めながら、「おれはいるよ」と吐息をつく。
「あの現場の常駐って、同期の市村だけどさ。あいつもずっとこっちに彼女いたけど、あの現場になってしばらくしてから振られたんだ」
ごくん、飲み込む音がやけに大きく感じる。市村というと、何年も出張扱いになっていると噂の社員だ。なるほどと合点がいった。
「大体さー、地元企業に就職したはずなのに、一年の内一ヶ月もこっちにいないじゃん。それなのにあそこはさ、今でこそ休み取れてるけど、市村もサブマネも月に二日程度しか休日なかったらしいぞ」
月に二日。それだけ連勤していれば、たとえ休みが取れたとしても、こっちに帰ってくる体力なんてないだろう。間違いなく俺なら寝る。寝だめする。
「サブマネって、女性だろ。いいのかそんなの」
ようやく言葉を発する俺に「よかねえよ」と山根は緩く首を振った。
「元々正社員志望の、俺らと同年代のひとだよ。だからって、係長がどんどんシフトに入れて、深夜も早朝も入ってることがある。無茶苦茶だよ。確かに仕事が出来るひとではあるけどさ」
苦々しそうに言って、ちらりと周囲に視線を走らせた。万が一係長が食堂に来ていないか確認したんだろう。
そうか、と呟いて、それならやはり俺が適任なんだろうと思った。
「恋人は、いない。誰とも付き合ってない」
「え、マジで。好きな人もか。いるから悩んでるんだと思ってた」
「いるよ……いるけど、どうしようもないんだ。もう随分前に告白してる。望みなんてこれっぽっちもない。ただ、俺が諦めきれないだけで」
「そっか……」
恋人がいるという山根は、なんだか申し訳なさそうに茶碗を手にした。
「ま、環境が変わるのはいいことかもな。あの現場も、俺らが入るようになって前よりマシになってるし」
だからまあ、急がなくていいけど、前向きに検討してな。そう言われて頷いて、それからはふたりで黙々と昼食を進めたんだった。
その日は金曜日で、豪が訪れるのは大抵金曜か土曜の深夜だったから、今日も来るのかななんて考えながらハンドルを握っていた。
会いたい。抱きたい。体の温もりだけでも共有したい。その時だけは、俺だけの豪だって夢を見ていられるから。
定時で上がれる本社勤務は、出張中と比べて天国のよう。だけど、帰宅ラッシュに捕まるから、車の列は少しずつしか進まない。信号の度に停止してはノロノロと進みの繰り返しをしていると、駅前の大きな交差点で、アーケードの入り口にいる人物が目に入ってきた。
白でスカルマークの入った黒いTシャツにデニムパンツ。ウォレットチェーンが垂れていて、あれは間違いなく俺が誕生日にプレゼントしたものだ。ブレーキを踏む足に、力が籠もる。
まだ闇に支配される前の、ビルの彼方に太陽が消える直前の日差しの中で、豪の隣に立つ男。豪より少し背が高い。ということは、俺よりも高い。髪を短く整えている細マッチョ系の男が、豪の肩に腕を回して反対の肩には顎を載せている。そいつのもう片方の手は、豪のシャツの裾から中へと消えていて、斜めに顔を向けている豪は、それを振り払うでもなく笑っている。
豪の知り合いは、多すぎて俺には把握できない。それでも圧倒的に女性に囲まれていることが多いから、男とそんな風に親しげにしていることに手が震えた。
パッパーッ。喧噪の中、クラクションが鳴り響く。ハッと我に返ってバックミラーを見ると、後ろの運転手が怒りも露わにこちらを睨み付けている。正面の信号が変わっていた。
音に反応して、豪と男が顔を向ける。ブレーキを離した俺と、豪の視線が絡んだ気がした。
アクセルをゆっくりと踏み込む。豪が顔を戻してしまう。その顔つきは、知らない通りすがりを見たように、驚きなど微塵も表してはいなかった。
そして、その夜、豪はやってこなかった。
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