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意外と強引

「おはようございまーす」  挨拶と共に控え室に入ると、中にいるスタッフからも同じものが返ってくる。  事務机にいる市村はいつものようにへにゃっと笑って俺を見上げて、その近くのスツールに腰掛けている鍋島さんは何故だか「よっしゃーっ!」と力こぶを作って吠えている。  丁度出るところだったらしき小野さんに道を譲ろうとして、その顔色が気になった。 「具合悪い?」  遮るように腕を伸ばすと、数センチ手前で足を止めた小野さんの顔をもう一度ちゃんと見ようとする。  元々白い肌が、透き通るを越えて青白い。苦しそうにも見える。  小野さんははたりと瞬いて、困ったように微笑んだ。 「ちょっと、鍋ちゃん見てたら胸焼けしそうになって」 「胸焼け?」  鍋ちゃんこと鍋島さんへと視線を逸らせた隙に、するりと小野さんは出て行ってしまった。十三時からの巡回の準備だろう。  朝から夜まで入っているアルバイトの鍋島さんは女子大生で、わざわざ市外から通ってくれている。土日祝の繁忙日にがっつり入ってくれる有り難い存在だ。  その鍋島さんの前には、箱に入った駄菓子のチョコウェハース。これか……。 「安原さんもどうぞー!」  はい、と差し出されたのは、開封済みの一袋。 「大人買いしたけど欲しいのはシールの方なので、チョコ食べるの手伝ってくださーい」  苦笑しながら受け取る。市村の手元にもかじり掛けのものがあり、視線を交わして笑ってしまった。 「俺もガキの頃集めてたけどさあ。流石に箱買いするほどじゃなかったわ」  スツールを出して腰掛け、かじりながらシフトを確認する。急な休みなどはないようだけど、午後は小野さんと鍋島さんの二人体制。最低必要な三人体制になっておらず、これがここの通常運転らしい。げんなりする。  朝からの人が一人、十三時上がりだから、報告を待って俺も店内見回りに出ることになる。 「やだなあ、大人だから箱買いなんですよう。でもようやく目当てのゲットしたから、これ以上買わなくてすみます」  でへへーと、声に出して笑っている鍋島さんは、きっと今時の若い子の中でも浮いているんじゃないかと思ってしまう。俺は嫌いじゃないし、親しみやすくていいけど。それになにより、小野さんの次くらいに頑張り屋で、無茶をお願いしても聞いてくれるんだ。人の悪口や愚痴も言わないし、教育した小野さんのお陰なのか持ち前のものなのか不明だけど、天使のように輝いて見える。  もう一つどうぞと差し出されて一応受け取ったものの、それは事務机の端にそっと置いておいた。糖分が欲しくなったときに頂くよと返答すると、彼女は納得したようだ。  市村からの引き継ぎを聞きながらも、先刻の小野さんのことが妙に気になっていた。彼女のことだから、体調不良でも口にしないだろう。酷くなる前に休ませないと、倒れてからじゃ遅い。  市村が帰り、上がりのパート女性からも引き継ぎを受けて、俺は簡易携帯端末を胸ポケットに入れて、控え室を後にした。  人手が足らないときには、男が入れない女性用トイレを含むルートが二人のシフトになる。これはあくまでも緊急時用で、本来ならメイン通路の除塵などをしながら移動して、トイレチェックと吸い殻回収もするのだ。  俺は黄色いゴミカートを体の後ろに引きながら、混雑した通路を、人に当たらないように細心の注意を払いながら回っていく。  広大なモール内で、通路だけでも何十個もゴミ箱がある。何度もバックヤードに戻り種類別にゴミを出してはまた通路に戻るを繰り返し、一周してまた最初から始めれば、ほんの一時間半前に空にしたはずの箱は溢れそうになっている。延々とそれを繰り返し、合間にはモールスタッフから掛かってくる呼び出し電話を受けて、近い場所にいるスタッフに伝えて急行させる。  あっと言う間に日が落ちて、夜がやってくる。  床に落ちたソフトクリームを拭き取りながら、すれ違うばかりで話しかける暇もなかった小野さんはどうしているだろうと思った。  落ちた後ティッシュででも拾ってくれたらいいのに、そのまま放っておくからほかの客が踏んだりカートでひいたりして広範囲に汚れが付着する。乾いているから余計に取れにくく、しかも歩いている人は足下を気にしないから、邪魔そうに睨まれる。ひたすら、失礼しますと申し訳ありませんを繰り返しながら、人の流れを縫って作業した。  親子向けのイベントも終わり、明日の出勤登校に向けて人が少し減ってくる頃、ダスターを洗うのとゴミを下ろすののついでにバックヤードに戻った。  控え室に戻ると、鍋島さんは夕方にも休憩を入れたようだが、小野さんは戻らずにずっと店内を回っていたようだ。 「また無理をして……」  休憩の印が入っていないシフト表を見て、俺はきびすを返した。この時間、スケジュール通りならテラスの吸い殻回収をしているはずだ。  ゴミと吸い殻はこの時間帯以降はそう増えず、あとは夜間スタッフに任せてしまえばいい。  バックヤードから二階に上がり、フードコートを突っ切りウッドデッキのテラスに出る。冬場は人が減るが、日の暮れかけた初夏、この時間帯はいきがった若い男女で溢れている。  テーブル席の側に点在する吸い殻入れはどれも綺麗で、たった今清掃された様子だ。順路通りなら俺が来た方向へ帰るからすれ違っているはずで、俺は周囲を見回した。  はっと息を飲む。駐車場へと続く幅広の階段の降り口の脇に、巡回カートが停めてある。上にあるはずの吸い殻回収セットがない。手に持って何処に行ったのかと更に視線をさまよわせると、駐車場内の公園に赤と白の制服が見えた。  そうだ。平面移動なら、カートのままの方が労力が要らないから、こんなところに置いていくとしたらカートで移動できない場所に行くときしかない。けれど、勿論そんなロスのあるシフトは組んでいない。  小走りに階段を下りると、車の間を縫って公園に入った。小野さんはバケツを下に置いて、深緑のダストボックスに縋るようにしている。 「小野さんっ」  チェックのベレー帽がぴくりと動いて、口元を押さえた小野さんが、俺を見上げた。こめかみから汗が滴っている。よほど暑い時間でも、そんな風に汗が垂れるほど放っておく人じゃない。 「後はなんとかするから、休憩して」 「すみません、まだレストランコートのトイレが……」 「いい。鍋島さん行かせる」 「無理ですよ」 「最悪女性用だけ入ってもらう。男性用は俺が行くから」 「そんなの駄目です」  ハンカチ一つ出せないくせに、手で支えていないと立っていられないくせに、まだ強情に断る小さな赤い唇が恨めしい。 「旦那さんは勤務中? 呼ぼうか?」  話し掛けながら端末を出して記憶を呼び起こす。俺が入ってくるときに居たから昼勤か。もう帰っているかもしれないけど、待ち合わせしてどこかにいるかもしれない。  小野さんは緩く首を振った。 「あと少しで終わりますから……。そうしたら、帰りますから」  少しといっても、時間にして一時間だ。とても保つとは思えない。透かした紙のように白い顔で、この暑いのに震えてるのをこき使えるわけがない。 「今すぐ俺に抱き上げられて休憩室に連れて行かれるのと、自力で歩いて帰るのとどっちがいい?」  きっぱり二択にすると、小野さんは瞠目した。手のひらの下の口はぽかんと開いていそうだ。 「――私、そんなに軽くないです」  うん、まあ、女性の中では高い方だしね。って、そこじゃない。 「俺はそんなに非力じゃない。市村と一緒にされると面白くないんだけど」  五十キロやそこらの女性を抱えるくらいは出来るはず。やったことないけど、多分。 「んで?」  腕を伸ばす振りをすると、慌てて小野さんは姿勢を正した。 「じ、自分で帰りますっ」 「ん、わかった」  試してみたかったからちょっと残念な気もしたけど、なんにせよ小野さんが諦めてくれるならそれでいい。  バケツと水を持ってテラスに足を向ける俺の少し後ろに、いつもより頼りない足取りの小野さんが続く。 「安原さんって、意外と強引……」 「男は決断力」  はあ、と吐息のように相槌を打つ声を背中で聞きながら、プライベートでは全く発揮されないそれに苦い笑みが浮かんだ。

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