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辞めたくない
「ひとつだけ、訊いてもいい?」
微笑んだまま問うと、僅かに首を傾げる。返事を待たずに俺は切り出した。
「どうして、市村じゃなくて俺なの」
傾げた首を戻して、小野さんは少し眉を寄せた。
ずっと一緒に働いてきた、戦友ともいえる市村より、何故つい最近来たばかりの俺に告げるのか。その理由は、なんとなく察するけれど、それでも。
膝に置いた手に力が籠もるのが判った。少しだけ張った腕を見て、それから顔に視線を戻す。
「市村さんを、困らせたくないから」
「俺なら困らせてもいいんだ」
からかうように軽く言うと、「今だって困ってないでしょう」といなされてしまう。
「そういう意味じゃないの、解ってるでしょう……?」
わざとむくれたように上目に見られて、今度は本当に吹き出してしまう。
「そうだな。俺は、迷わないから。何が大事かなんて、決まりきってる。選ぶべきものの基準がはっきりしてるからな」
「そういうところが、好ましいなって思います」
釣られて淡く微笑んで、またすぐに表情が引き締まる。
呼ばれて、真顔で見つめ合う。
「私……妊娠しています」
「おめでとう」
再び間を置かずに返した俺は、自然に微笑んでいた。
いくつかの選択肢の中で、一番良い方向の答えだったんだから、当たり前だろう。けれど、本人はそう思っていなかったようだ。
本心を探ろうとするかのように俺の全てを子細に観察し、瞳を覗き込む。まるで恋人に告げるみたいに腰が引けている彼女の気持ちが、俺には解っているつもりだ。だから尚更、めでたいことだから心配するなと、表そうと努める。
「落ち着くまで、調整して乗り切ろう。それからシフト内容も考えるし、日祝メンバー集めるよ」
かねてから、考えていたことだった。それを急ぐ必要が出来た、ただそれだけのことだ。脳内で取りまとめようと思案していると、呼ばれた。
「いいんですか」
「ん?」
「安原さんは、社員なのに……」
無意識に組んでいた腕をほどいて、申し訳なさそうな小野さんを宥めようと微笑む。
「社長が目指しているものと、現場は違うんだよね。求められているものは、暗黙の了解になってしまっている今の状態じゃない。ただ、日々に追われてそうするしかなくて、でもそれは社の方針に相反している。
そんなの、誰かが変えていかないと、どこからも信頼をなくしてしまう」
正社員は、本社敷地内の託児所に子供を預けて、看護師付きで任せて働くことが出来る。だけど、全国に散らばるのは、ほかの企業内の控え室兼事務所で、その企業自体にそういう施設がなければ利用できないし、新たに作れるほどの金銭的余裕もない。
何しろ、いつ提携を切られるかもわからないんだ。簡単に託児施設も作れなければ、パートに産休育休を与えられるほどの資金力もない。
故に、妊娠したら即解雇。それが現場での決まり事。
パートに事務職はなく、立ちっぱなし歩き通し、高所での作業もあれば、機械も扱うし足下は滑る。あなたと子供を守るためですと言われれば、最終的には誰もが自分から辞めてくれる。そうするように説得するのが、社員である俺たちの役目だ。
そんなの、本当は市村だって納得していないはず。
ただ、係長みたいに実際に妻子がいれば、家でゆったりとしているものだというのが当たり前だし、その前提でパートのことも見ているから、そのように扱う。市村は、小野さんがなくてはならない戦力だと盲信しているから戸惑うだろうけれど、それでもセオリーに則り、促すだろう。逆らえないし強く言えないから今の市村がある。そして、市村を困らせたくない小野さんは、自分から辞めるしかなくなってしまう。
だけど、それって間違っているだろう。
「駄目だよ、今のままじゃ」
そうだろ? と囁くと、また小野さんの目が潤んだ。
「私、辞めたくない……っ。でも、この子も大事なのっ」
そっと下腹に当てられた白い手は、テーブルに隠れて見えないけれど。
あんなに大事にし合っている彼との赤ちゃんなんだから、そんなこと俺にすら簡単に理解できてしまう。
「ほどほどに頑張りつつ、無理しないで。元気な赤ちゃん産んでくれよ」
うん、うん、と微かに声を出して頷く小野さんは、いつの間にか丁寧語を止めていることにも気付いていないようだった。
アパートに着いて鍵を掛けようとして、覚えのある排気音とチェンジの入れ方に、その手を止める。
送り届けた先では、何度も小野さんに頭を下げられた。これからが大変だけど、助け合っていこうって声を掛けると、また泣きそうな目をして頷いてくれた。
「忙しくなるなあ」
それでも、自分が笑っているのが判る。
靴を脱いで作業着のボタンを外しながら洗面に向かうと、案の定ガチャリとノブが回った。チャイムを押すのと同時。夜中に鳴らすなって言ってるのに、癖で押してしまったんだろう。室内だけならいいけど、安普請だから隣にも聞こえてしまうのが問題だ。
「琉真」
挨拶もなしに上がり込んでくる。足音と声を背中で受け止めて、作業服一式を洗濯機に突っ込む。
「りゅうっ」
ぐいと二の腕を引かれて、初めて振り向いた。
「おー。シャワー浴びてくるから」
腹も減ってるけど、取り敢えず汗を流したい。豪の目的のためじゃなくて、純粋に自分が汚いのが判っているだけに。
「琉真……お前さ」
珍しく動揺した表情をしている豪は、なかなか腕を放そうとしない。下着一枚残したままの俺は、正面から向き合うことも出来ずに、ただ首を傾げた。
少し開いたかと思ったら、また口を閉じる。キュッと噛みしめた唇に、上から噛みつきたい。塞いで、舐めて、こじ開けて、中を暴いて俺の唾液を飲み込ませたい。
掴まれた腕をそのままに、腰を抱き寄せて、隙間なくくっついていられたら、どんなにか――。
劣情は顔に出てしまっていたかもしれない。怯んだようにびくりと肩を揺らす豪にハッと我に返り、緩んだ手から腕を奪い返すと、さっさと下着を脱いで風呂場に飛び込んだ。
「豪、後で話がある」
「――わかった」
どうにかムスコの様子は知られずに済んだと思いたい。
そんなに元気出さなくていいから!
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