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俺が愛しているのは、
「なんで? 琉真」
テーブル越しに、豪が顔を上げた。すっと通った鼻筋に掛かるまっすぐな黒髪が揺れて、その奥の二重の眼が揺らいでいる。
「なんでって、何が」
「ここって社員用なんだろ。ほんとは、バイトとかパートは使えないんだろ」
「そうだな、通常なら。だから、週末だけの通いなら、社の方には内緒だ。ただ、友人が泊まりに来るくらい、別に咎められないし」
それに、ここは元々市村が個人的に契約していたと聞いている。長期になると確定すれば、俺に名義を変えてもいい。
豪が、頷くはずはないと思って尚。そんな未来を妄想してしまう。
新しい女なんてこっちでもすぐに作れるだろう。連れ込むことだってあるかもしれない。
それでも、同じ屋根の下で朝を迎えて、同じ場所で仕事をする。親友とは呼べなくなっても、一番近くにいるのは俺だって、その事実にだけ縋ることが出来る。
恋人が出来たら離れていくって考えている一方で、矛盾した願いを抱いてしまう。
あー馬鹿すぎるだろ、俺。
「でもさ、あの女の人のこと。えーと、彼女……のことは?」
おずおずという形容詞がぴったりの様子で、いつになく殊勝に上目に視線をくれる豪。
「彼女って……ああ、小野さんか」
最初に豪が駐車場で待っていたとき、確かに代名詞として「彼女」と言ったっけ。だから名前を知らなくて当然なんだ。他に女性と会っていないから、きっと小野さんのことだろう。
「小野さんは自分の部屋があるから関係ないけど?」
勿論夫である小野と同じアパートに住んでいるから、なんでそんな突飛なことを言い出すんだろうと首を傾げる。
「で、でもっ……」
胡座を解いてテーブルに手を突き、豪は中腰になった。
「ごめん、さっき俺もファミレスにいた。そんで、全部じゃないけど、話聞こえて」
何か間違えたのか焦ったように口早に言いながら、また腰を落とす。今度は体育座りになって、膝を抱えてしまっている。
「うん……?」
何処から何処まで聞こえたのか判んないけど、でもそれとこの話の繋がり方が解らない。俺の方からは繋がった話ではあるわけだけど。
小野さんの穴を埋めるために豪を雇いたい。結局はそこが肝心な点だから。
「聞いてたなら話が早い。小野さんがシフトに入れなくなるから、なるべく早急に人員を補充したいんだ。通常は昼勤務に男性は採らないけど、そこはなんとかしてみせるから」
説明すると、豪は緩く首を振った。
「じゃなくって……。それは解ったから。じゃあなくて、出来ちゃったら、琉真は……」
「俺?」
小野さんに赤ちゃん出来たことと、俺。シフトのこと以外で問題点なんて思い付かないんだけど。
豪は束の間口ごもり、察してくれよというようにちらちらとこっちをみるけど、解るはずがないだろ。どんだけ長く過ごしてきたって、特に高校以降はプライベートはベッドの上以外にそんなに接点がない。豪の思考が推測できるわけがない。
「豪、はっきり言えよ。わかんねえから」
だからきっぱり言うと、「ああもう!」と豪は拳でテーブルを叩いた。なんなんだ。
「わかんねえのはこっちだよ! 結婚すんじゃねえの? 産んでくれって言ってたじゃん。だったらここに住むのはあの女だろっ。なんで俺を呼ぶんだよ! それとも別のとこに所帯持って、ここでは俺と逢い引きすんのか? 琉真がそんなことできるやつだったなんて思いたくねえんだけど」
一気にまくしたてて、はあはあと肩で息をする豪を見て、俺は放心してしまっていた。
「けっ、こん……?」
「だよっ」
まさかそれすらもしないつもりかというように、豪の目つきが険しい。今まで見た中で最凶に剣呑に睨まれて、ごくりと唾を飲んだ。
あまりにも予想外な展開に唖然としている間に、硬い音を立てて窓ガラスが鳴った。それにも関わらずに真っ直ぐ俺を見ている豪から視線が外せない。
窓を叩く音は次第に速くなり、ついに世界はその音だけに塗りつぶされた。
引き結んでいた唇を解いて、豪が何か言った。ささやかすぎて耳に届かない。多分名前を呼んだだけなのに、もどかしくなる。
剣呑さが薄らいで、黒曜石のように艶やかな瞳が揺れた。しかめていた眉がほどけて、唇がわななく。豪のその様を、ただ見つめていた。
ああ……やっぱり綺麗だな。
剣呑だろうが悩ましげだろうが、見惚れてしまう。
反応の鈍い俺を待つのも嫌になったのか、また豪が睨む。すう、と息を吸って、雨の音に負けないようにしっかりと発音された言葉は。
「不実なこと、すんなよな」
ふじつ。不実って言ったか? 今。
これほど豪に似合わない言葉もなくて、呆気にとられる。
「お前にだけは、言われたくねえな」
とっかえひっかえする様をずっと見せつけられて、俺の胸が痛まないとでも? 女たちだって、全員が全員、そんなやり口に納得してたわけじゃないだろう。
「俺はいいんだよ」
「いや良くねえし」
「今は琉真の話」
「俺の話だとしてもっ、」
「で、さっきの答えは」
横に逸れそうになった話題を引き戻される。バラバラと打ちつける雨音に負けじと、互いに少し声を張っていた。
さっきのって、ああ小野さんのことか。
「有り得ない」
吐息と共に出た言葉に顔色を変える豪。
「言ったろ、豪。ちゃんと聞いてたか? 俺が愛してるのは、」
「そんなの知ってる! だから、あの時から俺は――」
腰を上げてテーブルを投げるように横にずらされる。豪の顔が至近距離にあった。シャツの襟首を持ち、締めるように乗り上げられる。床に背が着き、束の間ひやりと涼しくなった。
「琉が俺のこと好きな気持ちなんて、微塵も疑ってねえよ。俺を諦めるなって確かに言ったよ。だけど、だけど、それとこれとは別だろ……」
ゆらりゆらりと揺れている瞳。泣きそうに見えるのは気のせいなのか。どうして豪がそんな顔をするのか解らない。
怒りなら、解る。誤解だけど、小野さん孕ませといて責任とらないのかって怒るのなら、解る。そうだと思ったのに、どうしてそんな風に切なそうに、いつも嫌がるキスでもしそうな勢いでのし掛かってくるんだ。
豪が俺に何を求めているか、解らない。
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