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帰ろうか

「慎哉くん」  ぱあっと小野さんの顔が輝き、釣られて入り口を向いた植田さんと俺は挨拶しようとして、その背後からひょこっと覗いた人物に戸惑った。  植田さんは不思議そうに、そして俺は驚愕して、小野の顔と視線をさまよわせる。 「あー、なんか従業員用出口で捕まっちゃって。安原さんの知り合いで間違いない?」  もしも違っていたら必ず責任を取ると意志の籠もった視線が向けられ、俺は頷いた。 「間違いないです。すみません、それで余計遅くなったんじゃ」  腰を上げて頭を下げると、いやいやと小野は眉を下げて微笑む。首を傾げた拍子に首筋に流れる襟足が色っぽい。着やせするタイプだろうなと見て取れるがっしりした体格を隠すような優しい笑顔のまま、小野さんの隣に腰を下ろした。 「失礼しまーす」  何故かしれっと植田の隣に腰掛けたのは豪だ。 「琉真の幼馴染みの豪です」  愛想の良い満面の笑顔で三人にぺこぺこと頭を下げる豪は、これ以上ないくらい胡散臭い。 「はじめましてー。そっか、安原さん、リゅうまって名前なんだ。カッコいい」  面識がある小野さんは黙って頭を下げただけで、対して植田さんは華やいだ笑顔で豪に応じ、それから俺を振り向いた。 「完全に名前負けだよな」 「全然。似合ってるって」  裏表のなさそうな植田さんに言われると、なんかちょっと嬉しくなってしまう。綻ぶ口元を誤魔化して、飲み物を変えようかとメニューを広げた。  向かい側のシートでは、小野夫妻がメニューを広げている。隣の植田さんも、豪にオーダーをどうするか尋ねているから、俺はゆっくりと呼び出しボタンを押した。  店員が去ってメニューを畳むと、植田さんと話しながらも、豪が小野夫妻の様子を窺っていることに気付く。  あー……。もしかして、小野さんの顔覚えてんのかな。二回会ってるし、結局誤解を解いていないしで気にしてるのかも。  あの日、微妙に両想いになったような気がしないでもないセックスのあと、気を遣ってしまった豪の後始末をしてから、俺もぐっすり眠ってしまった。  起床も遅くなったから家の雑事をしている間に出勤時刻が来て、帰宅する豪と一緒に家を出た。だから、小野さんの子種は俺のだと思いこんだままこの場に居るんだろう。  思い付いたらそわそわしてきて、豪と小野さんの間で視線が行ったり来たりしてしまう。  頼むから大人しくしといてくれよ~。見たら判るだろ? 二人がラブラブだって。俺が逆立ちしたって敵うわけないくらいイケメンの旦那に愛されて蕩けるような笑顔ではしゃいで。誰が見たって二人はお似合いのカップルだ。そこに俺の入り込む隙間なんて一ミクロンもない。  物思いは杞憂だったのか、和やかに食事が進み、植田さん絶妙の話術により、適切な話題が振られ、誰もが会話に参加し、そろそろお開きかという雰囲気を醸し始めた頃。 「あ、折角だから訊いちゃお。豪くん、安原さんの学生時代って、今と全然違ってたの? モテたことないって言うけど信じられないよ」  俺のことは名字のままなのに、名乗られたまま下の名前で呼んで、植田さんが興味深そうに豪に問うた。ちらりと俺を見て、また豪に戻す。 「それって、沙良ちゃんは琉真に気があるってこと?」  こちらも名前呼びの豪がにやりと笑った。楽しそうな顔。でも俺にだけ感じられる、不愉快そうな気配を纏わせて。  勘弁してくれ、と額を指で押さえる。今までこういう展開で、口説きモードに入った豪に堕ちなかった女はいない。  学生の頃は静観していたけど、俺の職場周りでやらかすのは止めて欲しい。切実に。 「豪!」  小声で窘めるも、一瞬視線をくれただけでそのまま植田さんを見つめている。二重の切れ長の眼差しで真っ直ぐに見つめられて、頬を染めなかった女は居ない。 「ないとは言わない」  植田さんは、残っていたジョッキの中身を飲み干すと、微笑みながら俺を見て、また豪に顔を向けた。 「で、どうなの?」 「いや、今と変わりなかったよ」 「それなのに、一人も?」 「就職後のことは知らない時期もあるけど、本人がそう言うんならそうなんじゃない? 少なくとも、俺が傍にいた間は居なかったな」  何故か小野夫妻まで一緒になって驚愕の声が挙がり、豪は皿に残っていたレタスとキャベツを口に運んだ。  あからさまな口説き文句で誤魔化さなかったことにほっとして、ほらな、と三人に目配せする。まだ納得いかないように口々に意外だと言い合う中で黙々と野菜を食べ終えると、豪が宣った。 「理由、聞きたいか?」 「えっ、理由判ってるの!?」  腰を上げそうな勢いで植田さんが食いつき、小野さんも目を見開いて頷いている。  って言うか、理由? そんなの考えたこともなかった。俺の何かが決定的に悪くて、それが原因だったとしたら。  今まで黙ってた豪って、相当性格悪くないか? 一番近くにいたくせに、なんでもずけずけ言ってくるくせに、そんな肝心なことを示唆してくれないなんて……。  幼馴染みとして、親友としての信頼関係に不信感が湧いて胸が苦しい。  黙っている俺に、笑みを引っ込めた豪が視線を合わせた。三人に訊かれて答える筈なのに、これ以上ないくらいに真剣な瞳で俺を射抜く。  そうして、ゆっくりと噛みしめるように、豪が告げた。 「少しでも琉真に興味を示した女は……全員俺が寝取ったからだよ」  誰も、言葉を出せなかった。  空調の風に僅かに揺れる暖簾が、通路を通り過ぎる人にあおられて豪の肩にまで届き、それからまた静かに垂れていく。  たっぷり数十秒、半個室内は無音になり、やがてじりじりと三人の視線が俺に集まるのが感じられた。  ここは、俺が声を出さないと。そう解っているのに、それでもしばらく動けなかった。  本気で言ってる。真実だって、俺には解る。その言葉の意味を今考え過ぎたら動けなくなる。  どれだけ俺を翻弄したら気が済むのか。  呼吸すら忘れていたような気がして唾を飲んでから深呼吸する。  豪は、嘘を吐かない。少なくとも俺は吐かれたことがないし、その現場を見たこともない。  言わないことならあるかもしれないし、言葉の意味を取り違えられることはあるだろう。だからこそ、俺はこの豪の言葉の、豪が含めている意味を読み取り理解しないといけない。  ぐっと、膝の上で拳を握って、腹に力を入れた。 「帰ろうか、豪」 「ああ、帰ろう」  間髪おかずに返事をして、豪はうっとりするような笑みを浮かべた。

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