2 / 163

第1章

数年後。 レイゴットの帝都マクフェルから直線距離で西へ約700km、マランカ湿原とラズニア山地の狭間に僅かにある平地に位置する農村・マーレ。 辛うじて帝国地図に記載されてはいるが、世帯数約40、人口200人程の小さな村である。 特産品を出荷している訳でもなく、ほぼ自給自足の貧しい村だ。 そんな村に先代から移り住んだのが、ドーガ一家である。 小さな2階建ての家のそばに、1ha(1万㎡)程の畑を借りて暮らしている。 その小さな家の屋根裏部屋、木枠で囲って粗末な皮布で覆っただけの窓からは、村の中心にある水車小屋が見える。 屋根裏部屋には寝台が1つあり(と言っても、藁を薄く引いてその上にボロ布を被せただけの粗末な物だが)そこには眠るでもなく、座ったままぼんやりと外を見ている幼い子供が一人いた。 「リア!いつまで寝ているんだいっ!早くクーノさんとこへ行ってヤギの乳を貰っといでっ!」 階下から聞こえてきた養母の怒鳴り声に、子供はぼんやりとしたまま、足元に畳んでおいたフード付きの薄汚れたポンチョをつけ、顔を隠すほどにフードを深く被ると、階下に繋がる梯子を下りて行った。 「やっと起きたのかいっ!ホントに使えない子だよお前は!アンタみたいな呪われた子供を育ててやってる恩を、少しは返したらどうなんだいっ!?」 リアを見た養母のマラカ・ドーガが、すぐに文句をぶつける。リアは俯いたままそれを聞いている。 ここで声を出せば、厳しい折檻がまっている。例え謝罪の言葉であっても、だ。 マラカの横では、3つ年上の義兄ラシーム・ドーガがニヤニヤと笑いながら、リアが罵倒されるのを見ている。 リアの生家は使用人が数人いる程度の、中規模商家であったと聞いているが、リアが生まれた時に予言専門の魔術師から、 「これは呪われた子供だ。この子供の眼を見たり声を聴いたりすれば呪いを受ける」 と言われ、その恐ろしさから、生みの母すらリアを抱くことを拒んだという。 家に置いていては不幸を呼ぶとの魔術師の進言により、当時使用人だった若い夫婦に結構な金を渡し、預けられた。 しかし不吉ゆえに誰も長く面倒を見たいとは思わず、あちらこちらと連れ回された結果、約2年前から、今のドーガ一家のもとにいる。 このような訳で、リアは眼を見せる事、声を出す事を禁じられている。 例え何かに驚き、思わずあげてしまった声であっても、養父母による折檻は行われる。 フードは深く被せられたまま、猿轡をキツく噛まされた上で、殴る蹴るの暴行を小さな体全体に受ける。 手足が折れ、ありえない方向へと曲がり、痛みと発熱でリアが気絶するまで暴行は続けられ、その後は屋根裏に放置される。 しかし丸1日程意識を失ったままであっても、次にリアが目覚めた時には、その全身に至るはずの酷い暴行の痕は全く残っていないのである。 何故そうなのか、リアにも分からない。だが、それが普通ではない事だけは理解している。 最初に暴行した時、養父母は殺してしまったら呪われるかもしれない、と怯えていたのだが、翌日傷一つない様子のリアを見、ありえない恐怖に慄いたものの、「これでどんな仕打ちをしても殺す事はない」と半ば開き直りのような感覚で、日頃の鬱憤を晴らすかの様に、自分達の気分次第で暴行を繰り返していた。 リアは、朝から機嫌の良くない様子の養母を見て、また殴られるのだろうな、と思っていた。だが、それだけである。殴られるのが嫌だとか、怖いだとかとは思わないのである。 傷がすぐに治るのも、呪われた化け物の証なのだと言われ、その言葉に疑問を持つこともなくそのまま受け止めている。 リアは今年で多分6歳になった。 多分というのは誰もリアの誕生日を知らないし、リア自身も気にしない。 自身の呪われた生立ちを、どの養父母も必ずリアに聞かせた。その内容から、おおよその見当をつけた結果、リアが生まれたのは1402年~1404年の間で「炎の月」か「水の月」だろうと思っているだけである。 しかし6歳にしては、同じ年代の子供に比べ体は驚くほど小さく、また言葉も知らない。 体が小さいのは単純に劣悪な環境のせいであるが、言葉が少ないのは、リアが話すのを禁じられているからだけではない。リアに話しかける者などいないし、与えられるのは一方的な嘲りと怒声、嘲笑だけであったため、というのが理由である。 いずれにしても、リアに与えられた環境は、体格や教育面では勿論、それ以上に情緒育成においても深刻な障害をもたらしている事は間違いない。 さて、リアは養母の怒声が取り敢えず終わったのを確認すると、自身の体の半分以上もある大きなミルク容器を、外にある葉野菜が乗せられた小さなリアカーに一緒に乗せ家を出た。 幼い子供の足では、ただ歩くだけでも片道30分位かかるクーノさんの家へ、葉野菜とミルク容器を乗せた重いリアカーを引いて歩き出す。 この村では自給自足が前提だが、村人同士で物々交換によるやり取りは頻繁に行われている。特にミルクや卵など、家畜が必要な物品については、交換を求める側が交換品を持って行くのが、暗黙の了解である。 家を出て20分位経った頃、やっと中間点ともいえる、村唯一の水車がある小屋まであと1歩という所まで来た。 その時、ふと何かの気配を感じたリアが上を見ると、朝日が昇ったばかりだというのに真黒な雲が急激に空を覆い始めていた。 次の瞬間、 ドンッ!ドドーン! これまで聞いたこともない大きな音と、激しい振動が村全体に響き渡った。 その後襲ってきた爆風のような強い衝撃波に、リアの軽い体は簡単に吹き飛ばされ、水車小屋の壁に強く叩き付けられた。全身の痛みに朦朧としながらも顔を上げると、水車小屋から東方面、広い麦畑を抜けた辺りに大きな炎が立ちあがっているのが見えた。 丁度今から向かおうとしていたクーノさんの家の辺りだ。 炎は麦畑へも燃え移り、リアのいる水車小屋目がけ、どんどんと近付いて来る。 遠くでは破壊音が何度も聞こえ、村人達の悲鳴や恐怖に慄いた叫び声も聞こえている。 「魔物だーっ!魔物が襲って来たぞっ!10体はいる!早く逃げろーっ!!」 「村の北側には空を飛ぶ奴までいるぞ!とにかく西側の道から隣村のサンジェまで走れっ!!あそこには辺境警備隊がいる!」 水車小屋を中心に東西南北に伸びた農道の、北と東の道からは恐怖に顔を引き攣らせた村人たちが、次々と水車小屋の前を走り抜けて行く。倒れ蹲るリアを気にする者はない。 おそらく養父母一家も既に避難しているだろう。 炎は既に水車小屋にも燃え移っている。この体が焼かれるのも、間もなくだろう。 しかしリアには、炎に対する恐怖も魔物に対する恐怖も無かった。 リアは「死」を知らなかったが、この体が全て燃えたなら、もう目覚める事はないだろう…そう思った時、今まで感じたことの無い、不思議な感覚を覚えた。 そう、覚めることが無い眠りを与えられようとしている事に、リアはとても安堵したのだ。 そしてそれからすぐにリアは意識を手放した。 リアが意識を手放してすぐの事。 荒ぶる炎から、その小さな体を守るかのように、いくつもの小さな淡い光が現れた。 赤、青、黄、緑等、様々な色をした光は、リアを包み込むように旋回し、やがて何かを呼ぶかのように点滅を繰り返した後、一瞬大きな光を発する。 するとそこには、やんわりと輝く1体の美しい聖獣が現れていた。 ユニコーンに似た一角獣であるが、彼の聖獣と比べると、その角の長さは半分ほどで、体は逆にやや大きい。最大の特徴は、胴体の両側から生えた、大きな翼である。 聖獣は出現後数秒間、俯せに倒れたリアを悲しげな瞳で見つめていたが、やがて大きな羽を腕の様に使って器用にリアの体を仰向けに返すと、その露わになった秀でた額に己の角を当て、心話を試みる。 『……。……リ………ア……リア、………オ…フェ…リア………オフェリア……』 『……ふし、…ぎ………な…こえ…?………だ……あ…れ……?……』 『………オフェリア、…私の声が聞こえます…ね?』 『…おふぇ…り……あ…?………?』 『そうです…。リア…、…貴方の真の名はオフェリア…。』 『…ほん…とう……の、な…まえ……?…』 『…今は色々話している時間がありません。…オフェリア、さあ目を覚まして。私を召喚(よん)で下さい。』 『……め……を…さま、す……?……………だ…め……。……りあ、は、……のろわ、 れた……こど…も、………め、…さめ……た……ら、こえ、……だせ…な……い……』  『!!…違います!貴方は呪われて等いません!それは人間達が自分たちに都合の良い 話を勝手に作りあげただけの事。お願いです、オフェリア、目を覚まして、私を召喚(よん) で下さい!…私は聖獣ペガサス。真名はシェラサードです。』 次の瞬間、リアの意識をペガサスから放たれた聖なる波動が包み込んだ。 やがてゆっくりとリアの瞳が開かれ、極上のアメジストを思わせる美しい双眼が、傍らに寄り添う見たことのない生き物を捉えた。しかし不思議とリアは先程会話を交わした相手が、この白い生き物だと悟っていた。  『オフェリア、さあ、私の名を…』 声ではなく、頭に直接響くような言葉と、とても呪い子の自分を見ているとは思えない、優しい瞳。 それは先程、覚めない眠りが与えられるかも知れない予感に、リアが生まれて初めて感じた安堵と同じようでいて、しかし全く違う暖かさと安らぎを伝えて来た。その心地よさに導かれるように、リアの小さな唇が、子供特有の高く澄んだ声で言葉を綴る。 「…しぇ…ら、さーど……?」 その声はまるで至上の歌のように空気を震わせた。 勿論、決して歌っている訳では無く、むしろたどたどしく綴られた言葉だと言うのに、聖獣には甘く極上の響きとなって伝わり、難しい召喚陣など無くとも、幻獣界の扉はいとも簡単に開かれた。 そうして、ぼやりと光る聖獣を、遥か上空から落ちて来た巨大な光が貫く。 同時に、周囲にいた魔物達が光に焼かれ、一瞬にして全て消滅した。 驚きとあまりの眩しさに、リアがギュッと目を閉じ再び開いた時、そこには先程までのぼんやりとした姿とは全く違う、輝く青銀の毛並とルビーの瞳、圧倒的な存在感を放つ聖獣「ペガサス」がいたのである。 その神々しい姿をぼんやりと見つめるリアに向かい、ペガサスはその美しい羽を広げ、深く頭を垂れると契約の誓いを立てる。 頭の中に直接響く心話ではなく、音として言葉を、正しくは「言霊」を紡ぐ。 「我、シェラサードは、誓う。これより我が全てを、主・オフェリアに捧げる。この先如何なる事があろうとも、主を守り、寄り添い、共にあることを。」 そうして片方の前足で、トン、と軽く地面を叩くと、リアの体が光に包まれ、一瞬にして傷付いた体は癒され、黒子一つないリア本来の柔らかで美しい肌に戻っていた。 「さあ、主。私に乗って。この村を出ましょう。」 そう言うとシェラサードは、大きな両羽を上手に使い、リアをそっと自身の背中に乗せた。 魔物は全て消滅したとはいえ、村中が燃え盛っており、逃げ道は「空」しかない。 そしてペガサスは空を駆ける聖獣だ。 ペガサスの力を持ってすれば、村の火を消す事は勿論、この程度の村ならその燃えてしまった家屋等も元通りにすることなど容易いが、シェラサードは主を苦しめた人の為になど、力を使う気は全く無かったのである。 そうして魔物襲来から30分足らずで、小さな農村・マーレはレイゴット帝国の地図から姿を消した。 第1章 END

ともだちにシェアしよう!