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第8話

「泊まっていくだろ?」いわゆる事後の、いわゆるピロートークというやつで、碓氷さんが言った。金曜の夜。明日は休日。お互い一人暮らし。何の支障もない。 「はい、碓氷さんがいいなら」 「これで帰れなんて言ったら鬼だろうが」碓氷さんがまた苦笑いをした。 「前の人は、言う人だったもんですから」最後まで言い切らないうちに、布団の中で碓氷さんが俺の足を蹴った。 「前の男の話なんかするなよ。マナー違反」 「……すいません。でも俺は別に、元カノさんの話しても大丈夫ですよ?」 「しないっつの」  碓氷さんは「元カノ」という言葉で思い出したらしく、ローションのボトルを手で探る。枕元に放置されたそれを発見すると、残量がないことを確認しゴミ箱に放り投げた。 「女の人より使う量、多いでしょ? 男は自然には濡れないから」と俺が言う。 「……知ってるよ、童貞」 「お陰様で、もう童貞じゃありません」 「はっ」碓氷さんは軽く笑って、俺を抱き寄せた。「あのさ、童貞だったってことはおまえ」 「前回はネコでした」 「ああ、そんな言い方、聞いたことある」そう言う碓氷さんの「そんな言い方」で、彼がゲイ界隈に通じているわけではないことを再確認した。それを更に強く裏付けるように、彼は続けた。「萩野はその……つまり元々、男が好きというか……そういうことなんだな?」 「たぶん。その結論に至ったのは最近ですけどね。興味本位と言っても女性相手には興味すら湧かなかったから。そんなことあるわけないって自分に言い聞かせてたこともありますけど、実際男とヤッてみたら、やっぱりしっくりしちゃって」 「そうか」そう呟いたきり、碓氷さんは黙り込んでしまった。でも、抱き寄せた手は相変わらずそのままで、何を考えているのやら。ただ、楽しそうとは言い難い表情だ。落胆なのか、後悔なのか……いずれにせよ、あまり良い話を考えてるようには見えない。 「……言いましたよね、振られても気にしないって。だから、いいですよ、今回限りってことで」先手を打つのは、傷を深くしたくないからだ。期待してガッカリするのは、俺だってしんどい。  碓氷さんの手がピクリと動いた。そして、その手はやがて、俺の髪を撫で始めた。 「好きだって言ったの、聞こえてなかったか?」 「セックス中のセリフに責任求めたりしませんよ、安心してください」  碓氷さんが横向きの姿勢になって、俺を睨む。「おまえの告白もそうか? ただのリップサービスだったのか?」  俺のほうが目を逸らした。「違いますよ。俺は……本当に」 「だったら俺も本気だよ」  碓氷さんは起き上がり、ベッドの縁に腰掛けた。俺からは背中が見える角度だ。 「すみません、何か気に障ったことを言ったんだったら」 「気に障ってるに決まってるだろ。おまえは俺が好きで、俺も好きだって言ってる。何故素直にそれを喜ばない?」 「あ……すみません」 「謝んなくていいから、ちゃんと言え。俺のこと、どう思ってる?」  俺も上半身を起こし、碓氷さんの背中に向かって言う。「好きです。本当に。切実に好きです」 「それなら」碓氷さんが振り返る。「つきあうか? 順番が逆になって悪かったけど」 「……はい」 「なんだよ、気の抜けた顔しやがって」眉を八の字にして、碓氷さんが笑う。 「気が抜けたんですよ」俺は再びベッドに横たわった。  碓氷さんはまた顔の向きを戻す。両手を組んで、指遊びでもするかのように、爪先同士を弾きあう。あの美しい手の、手入れの行き届いた指先だ。「さっきの、ローションだけどな」背中越しの声は、何故か頼りない。 「はい」 「前つきあってた子が……まあちょっとその、Мっ気のある子で」 「元カノの話しちゃいます?」俺はまぜっかえす。 「揚げ足取るなって」その時だけ一瞬振り返って笑って見せたが、またすぐに元の向きになる。俺の顔を見ながらでは話しにくいことらしい。「アナルセックスしてみたいって言うから、それで、準備した」 「前カノの話されたって平気だなんて言いましたけど、撤回します。今のそれ聞いたら、ちょっとムカつきました」 「ごめん。……で、まあ、したんだよ。悪くはなかった。ただ」 「ただ?」 「俺より、彼女のほうがずっと気持ち良さそうで。それで、つまり……」 「自分もやられてみたくなった、と」  碓氷さんは頷いた。「別れた理由はそれだけではなかったけど、そのことも大きい。彼女とつきあっててもその違和感は強くなるばかりだった」そこで一拍置いて、続ける。「とまあ、こんなことを言ってるけど、要は興味本位っちゃ興味本位だよな」 「俺のロストバージンと同じですね」 「ああ、だから、おまえの昔の経験だって、責めていい立場じゃない」碓氷さんは振り返り、そして、膝で移動しながら、俺の元へと戻ってきた。「でも、誰でも良かったわけじゃない。そこは、誤解しないでくれ」 「俺もです。俺も、碓氷さんだから」 「童貞みたいなこと言うけど」碓氷さんが俺の顔を覗き込む。「おまえが俺の、本当の運命の相手なんだって、そう思った」 「運命とか偶然とか、碓氷さん、そんなものに頼るなっていつも」もちろんビジネス現場の話だけれど。

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