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第9話
碓氷さんは茶化すことも、恥じることもせず、真剣な眼差しで言った。
「そう、でも、そう思ってしまった」
思ってしまった、だって。
俺が運命の相手だと。
童貞だって言わないだろ、そんなくさいセリフ。
でも、こんなことを真顔で言ってしまう碓氷さんがたまらなく愛しくて、どうしようもない。
「俺も、そう思います」
そして、一年後。俺はもう「新入社員」とは呼ばれないし、碓氷さんも「新人教育担当」ではない。人事異動で、部署は変わらなかったが、碓氷さんは係長に昇進した。彼から手取り足取り教えてもらえる期間は終わり、時にミスして怒られもするし、よくやったと褒められることもある。そして、廊下ですれ違いざまに「先、帰ってて」なんて囁かれてドキッとすることも、ある。もちろん彼の部屋の合鍵は持たされている。職場の誰にも言えないオフィスラブだけど、毎日幸せだ。
「PCの電源を落とせ」と碓氷さんが言った。もう営業部の部屋に残ってるのは碓氷さんと俺だけだ。
「えっ、ちょまっ、まだ報告書できてませんっ」
「今日、水曜だろ?」
「あ」
水曜日はノー残業デー。定時の六時になったら可及的速やかに退社することを推奨されている。否、強要されている。こっそり残ろうにも、七時には完全に電源オフ。非常灯以外の照明すらつかなくなる始末だ。導入当初は形ばかりのシステムだったが、最近は上からの通達もあり、給与面でのペナルティまで科せられるようになったものだから、ほとんどすべての社員がルール通りの定時に退社するようになった。
「でも、提出、明日の午前なんですよ。無理じゃないですか」俺は頭を抱える。
「それチェックするのは俺だろう? 適当に辻褄合わせておくから問題ないよ」
俺は碓氷さんを見る。碓氷さんは「睨んだ」と思ったかもしれない。「そういうわけには行きません。これは俺の仕事です」だって初めて碓氷さんから独り立ちして任された顧客。これだけは最初から最後まで自分の力だけでやり遂げたかった。
「キリキリ焦ったって効率悪いだけだっての」
碓氷さんは俺の背後に立ち、俺の肩越しにキーボードへと手を伸ばしてきた。そんな碓氷さんの、俺の大好きな細く長い指が叩こうとしているのは [Ctrl]+[Alt]+[Del]……
「だっ! 碓氷さんっ! 強制終了って! 待って、保存、保存だけさせてください!」
碓氷さんは中腰になり、俺の耳元で囁いた。「教えてやるから、続きは俺の部屋でやれよ」
そんなこと言ったって、碓氷さんの部屋に行けばPCを立ち上げる気になんかなれないに決まっている。
「嫌ですよ。碓氷さんちのPC、スペック低くて遅いんですもん。俺のタブレットのほうがまだマシ」
「悪かったな、マシンも俺も立ち上がりが遅くて」
「おっさんみたいなこと言わないでください」
「おっさんなんだよ」
「30前でしょ、そんなこと言わないの」俺は碓氷さんの下腹部を触る。シャツ越しでも、硬い腹筋だと分かる。「ほら、ちゃんと鍛えてるし、充分カッコいいですって」そう言いながらも、俺はタブレットをバッグにしまう。
それを目ざとく見つけた碓氷さんは「そんなこと言って、結局俺のふるーいおそーいおっさんPC使う気ないじゃないか」と唇を尖らせた。おっさんどころか、駄々っ子みたいだ。
「ま、どうせ近々、俺がこの間買った最新モデルが導入されるわけですから、そっちはお役御免ですよ」
「まったく、そんなのうちに来てから買えばいいのに。引っ越し荷物が増えるだろうが」
「三月末までの限定キャンペーンモデルだったんですよ。……さ、帰りましょ」
去年の春に出会った俺たちは、季節が一巡りしたこの春、彼の家で一緒に暮らすことを決めた。
一時は二人とも今の家を出て、もっと広い部屋に二人で越す案も出たものの、今の予算じゃ通勤がキツイ距離のところしか見つけられなかった。だったら今は貯金に専念して、「いつか通勤至便で壁が厚くて広い部屋に越そう」……ということになった。
彼の部屋の前まで着き、碓氷さんはポケットから鍵を出す。それを見るでもなく見ながら、俺はあることを思い出した。「そうだ。今日、これ、会社で作ったんだ」
ドア脇の、「碓氷」という小さなプラスチックのプレート。その下の余白に、俺は会社でプリントアウトしてきたネームシールを貼った。「萩野 Hagino」と二重に表記したのは、「荻野 」とよく間違えられるからだ。
「本家より長いじゃないか」と碓氷さんは笑った。文字数が多いせいで、シールは「碓氷」のプレートよりも幅がある。
「でも、文字サイズは控えめですから。居候の身なんで、一応、地味目に」
「馬鹿、何言ってんだよ」碓氷さんがドアを開け、俺に先に入れという仕草をする。俺に続いて、碓氷さんも玄関に立つ。俺とさして背丈は変わらないから、真正面に顔がある。やけに生真面目な顔だった。「おまえを居候だなんて思ってないよ」
次の瞬間、碓氷さんに抱きすくめられた。
「おまえは、可愛い後輩で……誰より大好きな、俺の、パートナーなんだから」
彼の腕の中で、なんだか俺は、自分が桜餅の餡子にでもなった気分だった。
(完)
※次話にて元となったSSを載せています
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