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第6話

 そうやって得た暁の安息の日々が、がらがらと音を立てて壊れたのは、ここに来て初めての夏だった。東京にいたころは考えられないくらい涼しい夏で、夜は星が綺麗に見えるし、滋は寝巻を浴衣に変えて、身代わりのときにはだけて見せるのがみんなの興奮を誘うような季節だった。もうすぐ暁の十六歳の誕生日という八月のある日、男たちは全員、森の集会所に集められた。 「次の日曜に、哉子探しを予定通り執り行う」 満がそう告げると、男たちは一様に殺気立った。そこで初めて暁は、「かなこ」が「哉子」という名の女であることを知った。 「土曜の日が変わる前に、私が哉子を部屋から出す。哉子は絵子から、まじないを受けている。日曜の朝日が昇るまでに哉子を見つけ出して蔵に連れていった者が、哉子の最初の男だ」 頭に冷水をぶちまけられたような衝撃だった。そうだ、ここに住んでいる男たちの一番の夢は「哉子に自分の子どもを産ませること」だったはずなのに。彦奈である滋と寝ることは、その代替に過ぎない。その証拠に、あんなに仲が良かった男たちは、今日は滋の顔を見もしない。本物の女を抱けるチャンスに、涎すらたらさんばかりに興奮している。そして考えている。どうやったらこの森で、たった一人の女を、自分一人だけで手にすることができるかを。満がそのあとなにか説明していたけれど、耳に入ってこなかった。  集会所から家に向かう道のりを、元と二人で歩いた。 「…俺は、出なくていいよね」 元は、星に向かって囁くように言った。 「俺はね、暁。十八のときに参加した。そのときにできたのが、お前だよ。お前のお母さんは、ここでたった一人の女の人だった」 「ねえ、おとうさん、知りたくないよ。だって計算が合わない。ここに、俺くらいの年齢の人は四人くらいいる。その人はみんな、お母さんが一緒ってこと?」 「…そうだね」 「そうだとしたら、哉子っていう女の人は、ねえ、おとうさん」 「仕方ないんだ。だって女の人は、十ヶ月で一人しか子どもを産めないんだから」 「ねえ、ここで守りたいことって、そうやって何代も、同じ女の人から産まれた人を、掛け合わせてるってことなの」 元は答えなかった。暁は座りこんだ。男を慰み者にするほうがずっとましだ。近親姦なんて、人間のすることじゃない。しかも、 「その、女の人は、怖くないの? こんな、星しかない森の中に放り出されて、いろんな男に探されて、連れ込まれて…最悪だよ、おかしいよここの人たち、気違いだよ!」 「…ごめんね、でも、これだけじゃないんだ、聞いてくれ」 「黙れ! 黙れよ! もう、嫌だ、おとうさんのこと嫌いになりたくない! 自分がそんな、そんな、そんなことで産まれたなんて、聞きたくなかった、ねえ、なんのために俺をここに連れてきたの? なんで…」 「それは……哉子を探してほしいからだよ」 「自分と同じことをしろっていうの、女の人、犯せって!」 真っ暗闇に、暁の慟哭が落ちていく。流れ星みたいに。 「俺は、お前のお母さんのこと、愛してたよ。お母さんも、お前を、愛してた、だから俺はお前を連れて、逃げたんだ」 「もう聞きたくない!」 耳を塞いで、暁はうずくまった。 「帰って! おとうさんのこと、殺したくなるから!」 初めて抱いた、それは純然たる殺意だった。首を絞めてでも、この男を殺そうと思った。それと同時に、幼いころからたった一人、この人のために生きていこうと約束した父親を、失いたくない気持ちが、暁の四肢を動かなくさせた。 「…ごめんね、でも、どうあっても、お前は哉子と出会ってしまうんだ、必ず。ごめんね…」 それが、その日聞いた最後の元の言葉だった。陽が昇って蝉が鳴くまで、暁はそこをずっと動かなかった。 「…あきら」 そういうときに決まって、暁を救いあげるのは滋だった。 「うちにおいでよ。哉子探しの前後は、みんな俺を呼ばないから」 地面を何度も叩きつけたせいで真っ赤になった手を、優しく滋は包んだ。夏休みが始まってすぐの、木曜日の朝だった。二日もすれば、ここに女が放たれる。 「…滋さんは、探さないの」 「うん。やることがあるから」 ほとんど支えられるようにして、初めて暁は滋の家に入った。滋は一人で暮らしているようだった。 「お父さんいないの…?」 「うん、いない。でもここって、誰がお父さんかってあんまり関係ない。みんな兄弟みたいなもんだから、優しくしてくれるし。ご飯も食べさせてくれるし。勉強も教えてくれるし、放りだしたりしないし」 戸を開けて、朝の冴え冴えとした空気と、燦々と照らす太陽の光を混ぜる。滋は居間に布団を敷いた。 「ずっとあそこにいて、寝てないんだろ。夏休みだし、昼寝でもしたら」 「…朝だよ」 「じゃあ朝寝だ」 「…隣にいて…」 きっと、元にもこんな風に甘えたことはなかった。物ごころついたころから家には母親がいなくて、保育園でも小学校でも、母親について聞かれるとなにも答えられなかった。元は会社員として働きながら、家事も育児も一生懸命で、なによりも暁を食べさせようと必死だった。自分はどんなに痩せたって、睡眠時間を削られたって、なによりも暁を大切にしてくれた。それが分かっていたから、風邪をひかないように、心配をかけないように、元の負担にならないように、暁も必死だった。身寄りのない東京で、たった二人で生きていくにはそうするしかなかった。それが当然だと思っていた。 「うん、だいじょうぶだよ」 ぎゅっと手を繋いで、滋が隣で寝てくれた。暁は初めて滋と二人っきりで寝たけれど、口づけすら交わさなかった。ただ泥のように眠った。  これで悪夢が終わればいいと思った。現実は、夢よりもっとひどかった。  滋の言った通り、哉子探しの開催が発表されてから、滋を呼ぶ男はいなくなった。暁と滋は、日がな一日、高校野球を見たり、滋の家の畑できゅうりやトマトを収穫したり、外出しないように過ごした。誰も暁を呼びに来なかった。暁はテレビを見ながらも、何度も何度もカレンダーを確認してしまう。今日は金曜、明日の夜には― 「豆茹でたから、筋取りしよ」 「二人しかいないのにこんなに豆ばっか茹でてどうすんの」 「だって、暇じゃん」 滋の細くて綺麗な指が、そうやって暁の気を散らしてくれる。 「…元さんとか、みんなの期待に応えたいって思うよね」 「…」 黙々と豆の筋を取っていると、滋が呟く。 「でもね、これから先、何度だって哉子に子どもを産んでもらう機会はあるんだよ。ただ哉子にとってはこれが初めてってだけで。だから、今年じゃなくてもいいんじゃない」 「…そう、いう、ものなの」 「うん、母親が子どもを育てないといけないのって、一年くらいでしょ。そしたらまた、産んでもらわなきゃ」 「…かなしくないの」 「俺はね、暁」 こけしみたいに目が細いと思っていたのは、勘違いだった。滋はいつも笑っていたのだ。笑って、目を細めていたのだ。こんなにきらきらした、美味しい飴玉みたいな瞳を隠すために。 「彦奈に選ばれたことを、かなしいと思ったことはないよ。みんなから毎晩求められても、辛くない。だってそれがここに必要な役割で、それでみんなが喜んでくれる。ここに産まれた男も、ちょっとだけの女も、そうやって育てられてる。それにね、みんなが俺を抱くとき、少しでもひどいことする人がいた? 大丈夫だよ。みんなきっと、ずっと、丁重に、丁寧に、哉子を抱くんだと思うよ。ここはそうやってまわってきた」 見たこともない自分の母親の顔と、見たこともない哉子の顔を想像しても、そこにはのっぺらぼうしかいなくて、泣いている顔もなければ怒っている顔もない。もちろん、笑っている顔なんかあるはずがない。それが暁の想像力の限界で、この場所に住む人たちとの一番大きな、隔たりだった。 「それでも、どうしても哉子探しの夜が怖かったら、俺と寝るといいよ、暁」 暁に対する、これ以上の誘い文句はなかった。暁は初めて、彦奈の蔵で彦奈を抱く。そう決めた。

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