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第8話

 哉子探しの一件が終わっても、暁は家に帰らなかった。哉子はきっと誰か他の男に見つけられたのだろう。しばらく経つと、滋を呼びに来る男がまたいつものようにやってきた。暁はあの夜以降、滋と寝ることはなかった。あの夜は、自分は彦奈としての滋を抱いたけれど、どうやっても自分はここの人間にはなれない。そしてここの人間でない男に抱かれることは、滋の立場を危うくするだけだからだ。 暁は哉子から全てを聞いた。けれど前に豊が言っていたように、それを明らかにする必要はないのだ。元も、それは分かっているのだろう。だから問い詰めに来ない。何故、女が生まれる可能性が高い双子の近親姦をしなかったのか、と。 (それはねお父さん、お父さんが俺を、東京で育ててくれたからだよ) 元はきっと、自分と同じように、自分の妻で自分の双子の姉の絵子のように、暁が哉子と子どもを作ると思ったのだろう。けれど、自分がそれに耐えかねて、東京に逃げたことを忘れてしまったのだ。この場所のまじないに捕らわれて、この場所の居心地の良さに呼び戻されて。この場所の呪いは、この場所で育った人間にしか効かない。だから、暁は暁の常識に則って、双子の姉を抱いたりはしないのだ。  誰が哉子を見つけたのか、それは誰にも明かされなかった。けれど男たちは一夜の狂乱を終えると、またいつものように優しい人間に戻る。一緒にサッカーをしたり、西瓜を育てるのが上手いおじさんが、山の冷たい水で冷やした西瓜をみんなに配ってまわったり。花火をしたり、一番小さい瑞と一緒に、カブトムシを捕まえたり。道で元と出くわすこともあった。学校の書類で保護者に見てもらう必要があるものもあった。元を暁を拒まなかった。ただ、決定的に、二人で暮らしていたころの二人ではなくなった。  元に誘われて、森の奥の、暗くて寒い墓地に行った。この辺の男の墓は、家々の間に点在している。だからこれは、女の墓なのだ。 「…愛した女が必ず死ぬっていうのはさ、さみしくないの」 「短い間に、みんな死んでしまうから、せめて生きている間だけは、愛情でいっぱいにしてあげたいとみんな思うんだよ」 「…お母さんも?」 「うん、絵子はね、暁と哉子のあとに、別の人との間に瑞を産んで、数年して死んでしまった。でも、三人も産んでくれた」 暁は気づいた。この男は双子の近親姦に思い詰めてここを飛び出したのではない。この男は、違う。 「どうしておとうさんは、俺を連れてここを出たの」 「…お前が五歳で、俺の次の彦奈になったからだよ」 ほら、現実のほうがずっと怖くて痛くて気持ちが悪いんだ。 「年齢なんか関係ない。お前は、この森じゅうの男から狙われるようになる。あんなに可愛くて、俺と絵子の初めての子どもで、大事な大事な暁を、奪われたくなかった。俺は自分がどんなふうになってしまうのか知ってた。それがお前の身に降りかかるなんて耐えられなかった。だから絵子に相談して、こっそり夜に逃げ出した。おれが二十三のときだ。武が手引きしてくれた。絵子の死に目に会えなくても、お前を守れて俺は、俺は…」 初めて、父親が泣くのを見た。見た、といっても、自分の目も霞んでいてよく見えない。 「ごめんね、おれ、哉子のこと、抱けなかったよ、哉子と子ども、作れなかったよ」 「いいんだ、哉子はちゃんと、きっと相応しい人が見つけてくれる。ただ会ってほしかった。たった一人のきょうだいだから」 同じくらいの背丈になった、頼りない父親をぎゅっと抱きしめる。二人で、女の墓の前で大声で泣いた。  現実は、まだ暁を待っている。  秋という概念はあまり適用されないらしい。十一月にはもう雪が降っていた。暁は滋の家と、元の家を行ったり来たりしながら生活していた。 「滋さんはさ、進路どうするの」 「えー? ないよ進路なんて。免許取って農業やるか林業やるかじゃない? でも彦奈やってる間は肉体労働できないし、みんなが養ってくれるから考えたことないや」 「知ってる? そういうの東京ではニートって言うんだよ」 「俺はみんなのためになってるからいいの」 「滋さんが彦奈で、みんなは大助かりだね」 「うん、天職だと思う」 その日、滋は機嫌がよかった。だから、口が滑ったのだと思う。 「滋さんは、何歳から彦奈なの?」 「えーっと、七歳…あ、」 ごとん、と滋が手にした薬缶が落ちた。 「…俺たちが、逃げたからだね」 火にかける前だった薬缶から、水が零れおちる。 「俺の彦奈が滋さんについた。それからずっと…」 「待って、それは分からないよ、誰にも、」 「滋さんは俺の身代わりをずっとしてくれてたんだ」 「ねえ、暁、聞いてよ! 俺は嫌じゃなかったよ、みんな優しいし、ねえ」 滋が縋りついてくる。 「出会う前から、俺のせいで苦しんでたんだ、俺を守ってくれてたんだ。滋さんを好きになる原因を、俺が作ったんだ」 「…え?」 「俺ね、哉子と約束したんだ。だから、いつか必ず迎えに来るよ。俺は滋さんが好きだから、それまで、滋さんを抱かないね」 「待って、お願い、待って…!」 その日から高校を卒業するまで、暁は滋の家に行かなかった。哉子と出会ってから二年の間に、何度も哉子探しは行われたけれど、哉子には一向に妊娠しなかった。暁は哉子と会うことも、一度もなかった。  まだ夜が明けきっていない道を、懐中電灯で照らして歩く。凍えるように寒い。けれど、綿や絹を組み合わせて一番温かい靴下の履き方も、ホッカイロの正しい貼り方も、暁はもう知っている。 「またこうやって、俺は大事な奴を逃がすんだよ」 隠して停めたはずなのに、車には武の姿があった。 「俺、ちゃんと免許取ったよ」 「あのなあ、逃げんのに事故ったらお話にならねえだろ。送るぞ」 「優しいなあ…」 武といろんな話をした。元がどれくらい勤勉に働いて、自分を育ててくれたか。武は元がどんなにいい彦奈だったか教えてくれた。空港まで、一時間半のドライブだった。 「帰ってくるのか」 「…うん、哉子と約束したから」 「やっぱり会ってんじゃねえかお前ら。お前で無理なら、もう女は無理かもな」 哉子とは会ったけどやってない、とは言わなかった。双子の秘密だから。 「お父さんのこと、よろしくお願いします」 「元とは、前からよろしくやってんだよ。そんなこと気にしないで、お前はやることちゃんとやってこいよ」 ばしん、と背中を叩かれた。よろめいて踏み出した一歩が、暁があの森を離れて歩み始めた最初の一歩だった。

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