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第9話

「寿々木さん、お休みは明日からでいいのよねえ」 「あ、はい、すいません」 暁の姿は、東京の小さなスポーツセンターにあった。大学に通うことを諦め、出てきてしばらくは職を転々としたが、縁あってこの場所で、インストラクターの補助という形で働いている。老人のボケ防止のための運動や、軽いリハビリを担当させてもらっている。もしもやる気があるのなら、夜間大学や通信制大学を使って資格を取ったほうがいいと、オーナーからは言われている。けれど自分のことに金を使うより、いまは貯蓄に回すときだ。 「もうすぐ夏休みだから、プールを使いたいっていう学生さんが増えるのよ。でもご実家に帰られるんじゃしょうがないわよね…」 事務のおばさんにちくちく刺されるのも、もう慣れた。やっぱり東京は、冷たくて、ちょっと意地悪で、五分前行動で、ごみごみしていて、一瞬でもあの場所の空気を吸った人間には居づらい場所なのかもしれない。だから元は、とても頑張ったのだ。 「家族を呼びたいんです」 「あら! あらあら! やだ私そんな立派なこと考えてるって知らなくて、やあねえ早く言ってよ! お母様? お父様?」 「父と…きょうだいが来てくれると嬉しいんですけど」 「あらやだ…ちょっと寿々木さんのお給料上げてもらえるように言っとくわね? もう…いまどき奇特な子だわ本当に…」 十五時休憩でお菓子を多めにもらえた。東京の人は現金だ。  仕事を終えて、アパートに帰る。布団は余分にはなくて、一人分と来客用が一つ。食器もそんなに多くはない。なにより畳がないから、文句を言われるだろうか。 (でもこれからここで暮らすんだしな…) 少ない荷物をまとめて、深夜バスを乗り継いであの場所へ向かう。別に飛行機を使わなくてもあそこへは行けるということが、少し経ってから分かった。ちゃんと、あの森の入口までは地図に書いてあるのだ。あとは市街地でレンタカーを借りて、教習所に通うときに覚えた道のりを、思い出すだけだ。  一番下の家の人は、誰かが逃げ出さないように、誰かが入ってこないように、口が堅くて信頼の厚い人だということはなんとなく覚えていた。だから暁は大周りをして、高校へ通っていた方向から車を入れた。思惑通り、誰もいない。そして哉子との約束の通りなら、今年も必ず今日、哉子探しがあって、滋はひとりぼっちのはずだ。哉子探しの日の日中は、男たちはみんな夜に備えて寝ている。哉子の父親である元と、彦奈である滋以外は。そして、滋はきっと一人が寂しくて、元のところへ行くはずなのだ。 「…ただいま」 相変わらず鍵の掛かっていない、元の家の扉を開ける。居間から、滋の楽しそうな声が聞こえてきた。 「かわいい! 本当にそっくりだね!」 「うん、内緒にしてね。哉子と暁の写真はこれだけなんだ。使い捨てカメラで撮って、東京に行って初めて焼いてもらった。俺の宝物」 「いいなあ、子ども…でもさ、自分で産めそうって思ったりしない?」 「ふふ、そうだね、俺も絵子を抱くまではそう思ってたな」 この幸せを、壊そうと思う。 「た、だ、い、ま!」 「暁!?」 二人の大切な人が、同じように目を丸くして驚く。 「しー、静かにして、迎えに来たんだ」 「え、お前、背が伸びたな…」 滋は絶句したまま固まっている。 「今日、哉子が死ぬよ。俺はお父さんと滋さんを迎えに来たんだ。いま、東京で働いてる。一緒に暮らそう。哉子が死んだら、ここはおしまいだ。ここに留まる必要もなくなる」 「…哉子が、死ぬって…」 「自分で死ぬのか、病気で死ぬのか、寿命で死ぬのか、俺には分からない。でも哉子と約束したんだ、初めて会ったときに」 「…あ、あきら、ほんものだ…」 滋の細くて綺麗な手が、縋るように、確かめるように暁の頬に触れる。 「もう、ここにいなくていいんだよ。一緒に暮らそう? 滋さんが好きなんだ。彦奈だから好きなんじゃない、滋さんだから、滋さんだけが好きなんだ。どれくらい好きかっていうことは、ここじゃ説明できない」 「あ…でも…」 元が立ちあがった。 「滋の支度を手伝う。俺は、あとからどうにかするよ」 「でもお父さ」 「哉子が、今日死ぬなら、誰が哉子のことを弔ってあげるの?」 元は、彦奈で、男で、夫で、そして正しく父親だった。 「滋、これが最後のチャンスだ、逃げなさい」 「はじめさ、でも…」 放心する滋を置いて、元は簡素な身支度の指示を出した。印鑑とか、通帳とか、誤魔化しのために書かれた母親の名がない戸籍抄本の説明を、滋の代わりに暁が聞いた。  真昼の逃避行が、成立する森。大切なものだけを持たせて、もちろん彦奈の桶は置いて、滋を助手席に押し込んだ。 「お父さん、本当にいいの」 「うん。お前が心配してるようなことは、ないよ」 「え?」 「彦奈がこの森を出ても、女が死ぬなら彦奈もいらなくなる。もう誰のところへもつかない。哉子のお葬式を出したら、さっき教えてもらった住所に行くよ。武と一緒に」 「絶対だよ、お父さん」 「絵子が、こうなるって言ってた」 「未来が見えるんだってね」 「…ぐずぐずしてると、見つかるよ。滋に逃げられるかも。早く行きなさい」 「またね」 ちょっと見ない間に小さくなった父親の肩を、ぎゅっと抱きしめて、暁は車を発進させた。 「滋さん、たぶん滋さんにとって不便だなって思うこととか、変だなって思うことはたくさんあると思うんだけど、その倍くらい幸せにするし、お尻が寂しかったら、毎晩俺が満足させてあげるからね」 かなこはこどもをうまずににじゅうよんでしぬ かなこはここでさいごのおんなになる だからあきらはそのとき、さいごのひこなをつれてにげて  これは、暁がひとつの世界を終わらせた物語だ。 了

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