10 / 11
9 祐介 (現在)
「好きな人いますよ」
そう答えた低い声を祐介の鼓膜は今も覚えている。
「誕生日の夜には一緒にいて下さい」
ーー祐介さんが欲しい
そう言ったくせにあの夜、真也は来なかった。
もしかしたら「好きな人」と上手くいったのかもしれない。
それなら良かったと祐介は思った。
ーー本当に?
ーー本当に良かったと思ったのか?祐介
学生時代、何度か告白されたが誰とも付き合う気になれなかった。
どうして真紀と付き合ったのか……目を逸らして、誤魔化して、言い訳をして、嘘も沢山ついた。もしかしたら祐介の気持ちに本人より早く気が付いていたのは、真紀だったのかもしれない。いつの間にか真紀との関係は、恋人から親友になっていた。詳しくは語りたがらない彼女もまた辛い恋をしていたらしい。
「別れましょう。貴方の気持ちは分かってる。私にも他に好きな人がいるの。でもその人とのことを公には出来ない、だからこのまま、ふりでいいから恋人でいて欲しい」
答えを迷う祐介に真紀は続けて言った。
「貴方だってその方がいいはずよ?腕時計……亡くなったお父さんの形見だって言って大切にしていたのに真也にあげたのね」
「貸しただけだよ」
祐介がつけていた星座という名前のついた古い腕時計を真也はとても気に入っていた。
「やるよ」
「ダメだよ、祐介さん。オレ、貰えません」
腕から時計を外そうとする祐介を真也は慌てて止めた。
「気に入ってくれてるんだろ?」
「だけど大事なものだって知ってる」
「おう、大事だぜ。だからお前にやる」
ーーお前だから
貰えないと言う真也の腕に強引に時計をはめた。
「じゃぁ、少しの間だけお借りします」
そっと優しく指で腕時計を触る真也を見て、まるで自分自身が大切に触られているように感じた。あの時、胸に燈った感情は、兄が弟に向けるようなものではなかった。
「このまま私の恋人として側にいれば失くさなくてすむわ。腕時計も真也も」
その言葉のままに姉の恋人のふり、話しの分かる兄のふりでずっと真也の側にいた。
真紀の恋がどうやら実を結びそうだと聞かされた時、潮時なのかもしれないと思った。
苦し紛れに願い出た転勤希望はあっさり叶えられた。
ーーバカだな、俺は
会えないと余計に募るのだと、初めて知った。
離れてみてどれほど大切な存在だったのか、改めて身に沁みた。
リビングに置かれたチェストの一番上の引き出しを祐介は開ける。真也の為に用意した小さな箱が渡せないままでそこにあった。綺麗に結ばれていた赤いリボンが萎 れて時の経過を祐介に知らしめる。そしてその横にはあの雨の日に揺れていた赤いネームタグ。薄れかけた名前を指でなぞってみる。
「真也……
ーー誕生日、おめでとう
「このまま私の恋人として側にいれば失くさなくてすむわ。腕時計も真也も」
確かに腕時計は失くさなかった。
けれど……真也は……
ーー失ってしまった
真也を待っていたあの夜、テーブルの上に置かれたスマホが着信を知らせて、激しく叫び出した。
ーー嘘だ
救急車の赤が雨にぼやけて水槽の中の魚みたいだと
ーー嘘だ
受け入れたくない現実を遮断するようにそんなバカなことを考えていた。
ーー嘘だ
葬儀が終わっても泣けないままぼんやり立ち尽くす祐介の前にその子は現れた。
「おにーちゃん……」
ーーおにーちゃん、泣いてるの?
ずっと胸につかえていた硬い塊が、喉までせり上がって、口から出そうになるのを祐介は掌を押し付け耐えた。けれどその衝動は抑え切れず崩れるように、その場に膝をついた。
「おにーちゃん、大丈夫?」
恐る恐る顔を上げると黒曜石の瞳が祐介を心配そうに見ていた。
ーー真也っ!
あの夜に真也が自分の命と引き換えに救った命がそこにあった。
「大丈夫だよ……大丈夫、ありが……とう、ありがとう……」
塊は途切れた声と止まらない涙になって溢れ出し、やがて降り出した雨は祐介を放したくないと、いつまでも、いつまでも、抱き締めた。
雨が降ると真也が会いに来てくれるような気がする。
出来る事なら今度こそ傘を持って迎えに行ってやりたい。真也が迷わずにここに、この部屋に辿りつけるように。
カーテンを少しだけ開けて外を覗くと雨が静かに七夕の夜を濡らしていた。
ーーまるで泣いてるみたいだ
ともだちにシェアしよう!