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第六話 オレが一番愛してる
絵に皺がつかないように優しく抱き締めたまま、無我夢中で走る。一人になりたくて人が少ない道を走り続けたら古い小屋があるだけの荒れ地に辿り着いた。
「ハァッ……ハァッ」
息が苦しくなって立ち止まり、その場にしゃがみ込む。まだあの卑しい眼と下衆な言葉が頭から離れない。悲しくて悔しくて涙が溢れて止まらない。
「詮索しないで俺を一人の人間として好いてくれる人、かな」
以前、アイリスに好みのタイプを聞いたらそう返ってきた。その意味はさっきので嫌でも分かった。あの中にアイリスを大事にしてくれる奴は居なかった。
『オレなら、大事にできるのに……オレならアイリスをそんな目に遭わせないのに、オレだったら、ッ……優しく、抱き締める、のにっ』
訳が分からない。理解できない。何でアイリスをそんなふうに扱えるの? 何で大事にできないの? 何であんなに綺麗な人を乱暴にできるの?
『分からない……酷いよ』
でもオレはもうアイリスに会いに行けないかもしれない。アイリスはもうオレの事を嫌いになるかもしれない。オレから聞いたわけじゃない、彼奴らが勝手に話したんだ。
でも、知ってしまった。オレはアイリスの過去を聞かないという約束を破った。だからもう、側に居られないかもしれない。そう考えただけでどうしようもなく悲しくなった。
『アイリス……会いたい』
暫く膝に顔を埋めて泣いていると、足音と男性の声が聞こえてくる。顔を上げると、二人の男性が見えた。
「えっ、誰? お客さん? 迷子?」
「あんた、何してんだこんな所で」
二人は交互にオレに話し掛けてくる。
「泣いてるの? 大丈夫?」
肩まで伸びた暗めの茶髪の人がオレに目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。よく見ると二人とも整った顔立ちをしている。
「迷子なら町まで送って行くが」
ほら、と黒髪の人がオレに手を差し出す。オレは慌ててその手を掴んで立ち上がった。
「迷子ジャナイ。ダイジョブ、帰れる。アリガトゴザイマス」
「そうかい。そろそろ日も傾く。気を付けるんだよ」
「ハイ」
オレは走って来たであろう方を向いた。だけど生えっぱなしの雑草があるだけで建物が見えない。あれ、こっちじゃなかったっけ?
「やっぱり送って行く」
その場でぐるぐるしていると、黒髪の人がため息をついた。
「ゴメンなさい……お願いシマス」
「ああ。翔太も行くか?」
「行く。折角だし夕飯に何か買ってこようよ」
結局、港まで二人に送ってもらった。夢中になって気が付かなかったがかなり遠くまで来てしまっていたみたいだ。何はともあれ、日が完全に沈みきる前に帰って来ることができて良かった。
「えっと、ショウタさん、ハルキさん、アリガトゴサイマシタ」
「いいえ〜。元気でな」
「もう一人であんまりふらつくなよ。そのうち掻っ攫われて売り飛ばされるぞ」
「気を付けマス……」
二人に手を振って別れる。二人は手を繋いで寄り添って歩いて行った。
『ルーカス、お帰り。早かったね』
『父さん……ただいま』
父さんが船から顔を出す。ちょうど帰ってきたところらしく大きな荷物を抱えていた。
『何か手伝う?』
『いや大丈夫、これで終わりだ。それより目、どうしたんだい? 真っ赤に腫れているじゃないか』
父さんは荷物を置いてオレの方に駆け寄って来て心配そうにオレの顔をのぞき込んだ。
『……大丈夫、何でもないよ。ねえ、アイリスの所行っても良い? 今晩帰ってこれるか分からないけど』
『本当か? 本当に誰にも何もされていないな?』
心配症の父さんはしつこくオレに聞いてくる。実際に何かされたのはオレじゃないし、父さんに話せる事じゃない。オレは首を横に振った。
『オレは、大丈夫。ねえ、行ってきても良い? アイリスに会いたいの』
『その前に一つだけ聞いてくれ』
ドサッと重い荷物を下ろす音が聞こえる。船内で父さんに着いていったクルーが荷物を運んで仕分けているんだろう。本当に手伝わなくていいのかと心配になったがそれよりも先に父さんの話だ。
『何かあったの?』
『出航日が大幅に早まった。予定よりも早く取り引きは終わった。いや、陛下からの連絡が入ったから早く終わらせた。だから明後日日本を発つよ。友達にも挨拶しておいで』
『急だね……オレ、日本に残っちゃ駄目? それかアイリスを連れて行きたい』
オレが言うと父さんは困ったような顔をした。
『一度陛下に謁見しないといけないから帰らないと。それにすぐに出発じゃあその子も準備できないだろう。残念だけどまた日本に来るから』
『お願い、父さん。アイリスを一人置いて行きたくない』
『そうは言っても……』
『お願いします。必要なことは全部オレが教えるし部屋も一緒でいい。迷惑を掛けるかもしれないけど、その分オレがもっと働くから! 大事な人なんだ』
父さんは腕を組んで考え込んでいる。無理を言っているのは分かっている。本当はアイリスと両想いになってちゃんと紹介してからこの話をするつもりだった。それにアイリスが下衆な連中に狙われているなど夢にも思っていなかった。
『分かったよ。クルーには僕から言っておくから連れておいで』
渋々、といった様子で承諾してくれた。嬉しくてオレは片手で父さんに抱きつく。
『やった! ありがとう父さん。大好き』
『分かった分かった。真っ暗になる前に行ってきなさい』
『はーい! 行ってきます』
オレはアイリスの絵を抱えたままアイリスの元へ急ぐ。あの件があるから本当に一緒に行けるかは分からないけど……
アイリスには嘘を吐きたくない。全部話すつもりだ。もしかしたら嫌われるかもしれない。でも望みがあるならそれに賭けたい。拒絶されるのは怖い。それでもアイリスを騙すような真似はできない。もしかしたらアイリスはもう二度とオレと口を聞いてくれないかもしれない。だけどひょっとしたらオレと一緒に船に乗ってくれるかもしれない。
許してくれなくても、好きでいさせてくれればそれでいい。アイリスが幸せになれるならその相手はオレじゃなくてもいい。だけどきっと、オレが世界で一番アイリスを愛している。
アイリスの家の戸を叩くオレの手は震えていた。アイリスに拒絶されるかもしれないと思うと足が竦む。だからできるだけ夢みたいな事を考えていたけどやっぱり怖い。でもアイリスとちゃんと向き合いたい。何があってもこの気持ちは変わらないと伝えたい。どうか我儘なオレを許してほしい。
家の奥からアイリスの「はーい」という声がして戸が開いた。
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