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2-ゴローくんは記憶喪失
「名前はわかるけど、住んでいるところの住所も帰り道もわからない。携帯端末も身分証もなく持ってるのは小銭だけって、うーん」
ベッドの横に立ったコクウが腕を組み、男性を見下ろす。
倒れている男性を見つけたオレは、急いでコクウを呼びに行き、彼に手伝ってもらってオレの家の二階の使っていない部屋のベッドに運び込んだ。
幸い彼は、ほどなくして目を覚ましたが、なんだか様子がおかしい。
どうやら自分のコミュニティから出て、帰れなくなったようなのだが、家がわからないなら警察に……と言えば、それを嫌がり、記憶も曖昧なようなので病院行こうと言えば、それも断られてしまった。
そんな不審すぎる男に対しても、コクウは親切心の塊だ。
「なら、調子が良くなるまでここにいればいいよ!頭を打つなどして、部分的に記憶が抜け落ちるのは珍しいことでもないらしいから、不安に思わなくて大丈夫だ」
「お、おい!コクウ何を言って……!」
家主のオレを差し置いて勝手に決めてしまった。
頭を打って記憶がないなら余計に病院に行った方がいいと思うのだが、ホッとしたように頷く男性とコクウの決定をくつがえせそうな空気じゃない。
発見した時、コクウを頼らず、すぐに救急車を呼ぶべきだったと後悔したが、時すでに遅しだ。
「お腹空いてないか?何か食べる?」
笑顔のコクウに、男性が切れ長の目を伏せ静かに首を横に振る。
「じゃあ、飲み物を用意しよう」
勝手知ったるヒトの家といった調子で、コクウがお茶をいれに行ってしまった。
男性は長身に見えるけれど、それは顔が小さくスタイルがいいからだろう。
実際はオレと同じくらい小柄で、コクウと二人で二階に運んだときには驚くほど軽かった。
きっととろくに食事を取っていなかったに違いない。
寝かせるために脱がせた帽子の下の髪は黒く、どうなっているのかよくわからないけど、少し長めで豊かな髪を部分的に編み込み、残った上からふんわり髪をかぶせ、それも部分的に結ぶという、凝っておしゃれな髪型をしていた。
その割に着ているグレーのパーカーと黒のだぼだぼのパンツは、ヨレヨレで端は擦り切れ、小さな穴まであいている。
黒い目は切れ長で、口も大きく、きつい顔立ちで、ニホン種のような、でも少しヨーロッパ系種の雰囲気もある。……そして、ちょっとクールでカッコいい。
とはいえ、元カレほどではないけどね。
そんな彼が、黒い目でじっとオレの顔を見る。
うん……やっぱり元カレほどじゃない。そう。元カレほどじゃない。
だけど……。
「お茶とミルクとコーヒーを持ってきたけど、どれがいいかな?」
ヒトの家だとか、そんなこと御構い無しに、コクウはサービス満点だ。
「ミルク……いいですか?」
「そうだね!倒れたあとだもん、栄養つけないとね」
彼の声は思ったほど低くない。
けど、体型からするとそんなものなのかもしれない。
「ところでゴローくん、住所はわからないにしても、何か少しでも住んでるところについて思い出すことないかな」
コクウはオレの横に座ると、身を乗り出して質問を続けた。
「……お店を手伝っていました」
「自分の店以外を手伝ってたってことは、恋人と……同棲とか?」
つい余計な詮索をしてしまったのは、オレ自身がこの広い家で元カレと一緒に暮らせないかと期待していたからだろう。
「同棲……?お店をしているおじさんがいて、その家に置いてもらうかわりに店番をしてました」
「居候か。うーん。この商店街界隈で店番をしてたなら、すぐわかるんだけど、コミュニティ外となるとな。どうして居候していた家に帰れなくなったの」
「手伝いで配達をして、帰る途中で迷ってしまいました」
ヒトはマザーのハウスを中心におおまかな生活コミュニティがあり、就職するための移転や、旅行など例外も多いが、日常生活ではコミュニティから出ることはあまりない。
なので隣接するコミュニティですら迷うことは充分あり得るのだ。
携帯端末さえあれば、それを頼りにすぐに帰れるが、ゴローくんは持っていないらしい。
誰かに道を聞けばいいだけのような気もするが、世の中にはすぐに聞けないヒトも多いようだ。その場合、次に頼るのは公共交通機関だろう。
実際ここは駅から歩いて十分の距離にある。
コミュニティに戻るため駅に向かい、辿り着くその前に彼に何かがあったのか……。
「そうだ、ゴローくんは今いくつ?」
「…………」
コクウの質問に、口を開きはしたが、ためらい、目をそらした。
「言いたくない……ってことはないか。憶えてないのかな?」
小さく頷く。
クールな見た目に反して、彼の仕草は随分と幼い印象だ。
不安からそうなってしまうのだろうが……。
………ちょっと可愛い。
結局コクウは夕方近くまでオレの家にいて、なにかとゴローくんの世話を焼いてくれた。
「じゃあ、ハクト、ノンアノのショップへは、また次の機会にな。ゴローくん、しっかり体力を回復して家に戻れるといいな。じゃあ!」
笑顔で元気いっぱいに手を振ると、階段をきしませ隣のパン屋に帰っていった。
「……ハクト……さん。ノンアノを飼うんですか?」
コクウが出ていってすぐ、ゴローくんが初めて自ら口を開いた。
「そうなんだ。今日はちょっと見るだけのつもりだったけど、稼ぎも安定してきたしそろそろ飼ってもいいかなと思ってる」
さっきまではそんなこと全く思っていなかったのに、ゴローくんに聞かれちょっと見栄を張ってしまった。
ノンアノは買うのも飼うのもそれなりにお金がかかる。
一般的なノンアノは二十万円から三十万円で、高いノンアノだと数百万円はする。
それに、登録料や管理費、保険。ノンアノは少食なので食費はそんなにかからないけど、どうしたって愛情がわくからおもちゃや服など、ついついお金をかけたくなるのはヒトのさだめらしい。
オレは古書店に加え、副業で本関連のライターもしている。そしてその仕事の関係で情報が集まりやすくなったおかげで、古書店での希少本の取り扱いが充実し、通販も順調。
両方合わせれば、ノンアノを飼うくらいの余裕は充分にあった。
「さっきのコクウさんもノンアノを飼ってるんですね」
「え、どうして……」
そうか、ベッドに座るゴローくんの前には窓があって、その先にはコクウの家の窓。
そのガラスにチョミちゃんがぴったりと額をつけて、今もこちらを覗き込んでいた。
そんなチョミちゃんのふわふわの白い髪の上に立った三角の耳がピンと後ろを向いたと思ったら、パッと飛び上がり奥に走って行った。
ウチを出て行ったコクウが帰ってきたのだろう。
「あの子はコクウのノンアノのチョミちゃん。可愛いよな」
「はい」
「キミもノンアノを飼ってたり……?」
「いえ」
そうだ、居候をしているらしいから、飼えなくて当然か……。
………そして、会話が尽きた。
「えっと、じゃあ、食事の用意でもしようかな。なにか食べたいものとかある?」
「いえ、食事は要りません」
言葉に反して、うつむく彼の腹がキュウと鳴った。
「えーっと、あまり食べたくないにしても、倒れたあとだから、胃に優しいものを少しだけ作るよ」
にっこり微笑んで見せたが、彼は頬を染めてじっと自分の爪を睨んでいた。
キッチンに立ったオレがチャレンジしたのは、干し貝柱のダシを使った中華粥だ。
ネットでレシピを見ながら何度か作ったけど、そのたびに簡単レシピに騙された。
今度こそ、咲かせてみせよう、粥の花。
研いだ米はすでに水にかしていてそろそろ良い頃。あとはもう一品、野菜炒めでも作るか。
エビと青梗菜 と豚肉とタケノコ、ニンジン……。
あ、タケノコと青梗菜がない。
まあ、常備してる野菜じゃないし当然か。
代用品として白菜……のシーズンでもない。
「あの……お手伝いします」
「え、ゴローくん寝てなくて大丈夫?」
「はい。もう大丈夫です。何かさせてください」
キッチンの入口から半身だけのぞかせるゴローくんの目には、世話になったからには何かしなければいけないとばかりに切実な光が宿っていた。
「じゃあ、水につけてるお米をざるにあげて、土鍋にいれてくれる?」
「はい」
ぎこちなく近づいてきたゴローくんが、手渡されたザルと米の入ったボールを見比べる。
「水につけてるお米を……ざるにあげて……『ざるに』?」
ゴローくんはクールな表情のまま、お米の入ったボールの上にザルをかざし、少し首を傾げて、こんどはボールの下にザルをかざした。
そして、どうですかと言わんばかりにじっとオレの顔を見る。
「えっと、うん、それでそのままお米をザルに入れてくれる?」
……あ、本当にボールに入ったままのコメをザルに重ねて入れた。
「えーっと、お米をボールにひっくり返して水を切ってくれるかな」
「はい」
お米をボールにひっくり返したけど……シャーと流れる水に手を振って何してるんだろう。っていうか……。
「まって、まって、流しの上でしてくれる!?」
「あ、はい!」
ウソだろ!床がびしゃびしゃだよ……。
慌てて床を拭いて、改めてゴローくんを見ると、またお米に水をかけようとしていた。
「え、何をしてるんだ?」
「上手に水を切れなかったので、やりなおします」
そしてザルからタラタラ垂れる水に向けて、恐る恐る包丁を差し出していた。
「もしかして……いや、違うよ!水を切るっていうのは、えーっと、包丁で切る必要はなくて、お米から水が流れ出さなくなればそれで良いんだ」
「流れ出さなくなればそれで良い」
今度はザルの底をじっと見つめ始めた。
「いや、そんなに厳密じゃなくていいから、もう土鍋に入れて……あ、今日は土鍋に入れる前にお米を炒めるんだった」
一連の作業で、ずっと静かに慌てていたゴローくんの口元が、ビシっと引きつった。
「ああ、大丈夫、炒めるのはオレがやるから。ゴローくんはコクウのパン屋の斜め前にあるオウガさんの野菜屋で青梗菜 とたけのこの水煮を受け取ってきてくれる?」
倒れたばかりで心配だけど、さっき水を切ろうと俊敏な動きを見せていたし、野菜屋はウチから数メートルの距離で窓から様子が見えるから大丈夫だろう。
「受け取り……野菜屋さんはお金を持っていない僕が行っても渡してくれないと思います」
「それも大丈夫。もうネットで注文してるから、『ハクトの代理の者です』と言えばすぐに渡してくれるはずだよ」
「ハクトの代理の者です……ハクトの代理の者です……ハクトの代理の者です……はい、わかりました」
あまりにも心許ないので、ゴローくんが部屋から出て行くと同時にオウガさんに連絡をいれた。
ゴローくんは部分的に記憶を失っているから、色々不安が大きくなっているんだろう。
ただ、料理は一度もしたことがないに違いない。いくら記憶が消えているにしても、水を包丁で切ろうとするなんてありえない。
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