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50-ゴローくんはオレの手の届かない所に行ってしまった
ゴローくん……。
ゴローくんに会いたいよ。
だけど会えない。
再び彼はオレの元を離れ、遠くへ行ってしまった。
はぁ……。
「ああ、うっとおしいため息をつくな!俺の家で許されるのは、美味いものを食った後の満足のため息だけなんだよ」
ビール片手にタクアンをかじるコクウが渋面を作る。
「ああ、ゴローくん……」
「一人じゃ寂しいからってメシ食いに来たくせに、ぼーっとしてるかため息ばっかり。それじゃまるで俺の飯が不味いみたいじゃねぇか。もう帰れ」
「……はぁ」
◇
ひとりの家に帰れば、頭に浮かぶのはゴローくんの事ばかり。
病院で検査を受けるため、首都へと行ったのは一ヶ月前のことだ。
酒の上での失敗をしてしまったけど、お互いの不安を取り除くことができ、心の距離がぐっと近付いた。
オレが不安に感じていた、以前の飼い主に対するゴローくんの気持ちも、しっかり確認した。
「前の旦那さまと、ハクトさんは全然違います」
以前の家を思い出すように、ゴローくんがホテルの大きな窓の外に視線をやった。
「前の旦那さまが旦那さまになった時と、ハクトさんが旦那さまになった時も全然違いました。もしかしたら前の旦那さまは、旦那さまじゃなかったのかもしれません」
「旦那さまじゃなかったってどういうこと?どう違ったの?」
「僕がお家に行ってすぐに前の旦那さまにペロッと口を舐められて、それでみんなが旦那さまだって言うから、僕はあのヒトを旦那さまなんだって思ってました。でも、ハクトさんにキスされた時は、何かが体の中をぐるぐる回る感じがして、嬉しくて、もっといっぱいキスしたくなりました」
「へぇ、そんな感じだったんだ?」
相槌を打ちながらも嬉しくて顔がにやけてしまう。
「ノンアノセンターではみんな旦那さまに可愛がってもらうと嬉しいって言ってました。でも僕は前の飼い主さんに可愛いがってもらったことがないです。同じお家の子たちが可愛がられているのがうらやましいなって思ってました。でも可愛がってくれるなら旦那さまじゃなくてもいいって思ってました」
「前の飼い主さんに叱られた時は?特別に悲しかったりはしなかった?」
悟りでも開いたような大人な横顔が、スッとこちらを向いた。
「誰に叱られても悲しいです」
「あ、そうだよね」
「でもハクトさんに叱られた時は特別に悲しかったです」
「え、どうして?」
「嫌われたら捨てられるかもって、心配でした」
「だから、絶対捨てないってば」
ゴローくんが困ったようにふっと微笑む。
「はい。ずっとそう言ってくれてました。けど、心配でした」
「オレは絶対捨てないけど、仮に、本当に仮にだよ、オレがゴローくんを捨てたとして……」
その瞬間、サッとゴローくんの目に悲しみがよぎった。そんな表情を見てしまうと、仮定の言葉すら続けられない。
「ええっと、違う。今のは忘れて。仮にゴローくんがオレに捨てられたって“勘違い”することがあったとして、うん、本当は捨ててないんだけどね?ゴローくんは本気で捨てられたって信じちゃった場合、ゴローくん、どうする?また……前の飼い主さんの所に戻りたい?」
「僕がハクトさんに捨てられたんじゃないかと思ったら、まずコクウさんの家に行くようにと言われています」
「えっ……それ、コクウに言われたの?」
「はい」
まさかゴローくんにそんなことを教え込んでいたなんて。
さすが親切とお節介の権化だな。
いや、ものすごく有り難いけど。
「えーっと、ノンアノは飼い主さんのこと大好きだろ?だからもしオレが捨てたって勘違いしたら、前の飼い主さんの所に戻りたくなったりするのかなってことを知りたかったんだけど……」
「なりません」
「そんなあっさり……本当に?」
「はい。前の旦那さまは、あまり旦那さまではなかったです。ノンアノセンターの職員さんもまた何かあったら戻っておいでと言ってくれたので、コクウさんの家に行ったあと、ノンアノセンターに行きます」
「えっっ!いや、ダメ!ダメ!ダメ!もう絶対ノンアノセンターには戻さないから!」
ガシッと肩を掴むと、ゴローくんが怯えるように俯いた。
「…………『仮に』の話じゃないんですか?」
「そう!仮に!……あ、ごめん、仮の話なのにオレがこんな取り乱したら逆に不安になっちゃうよな?」
「はい、仮の話です。だからハクトさん、安心してください。僕は出て行きません」
ゴローくんがそっとオレを抱きしめ、ポンポンと背中を叩いてくれた。
ああ、なんて男前なんだ。
ゴローくんの大きな耳が、オレの前髪でくすぐられ目の前でパタパタと動く。
男前なのに、優しくて可愛い……。
ピピッとくすぐったさを振り払うように動いた耳が、ピタリと動きを止めた。
その時、愛しさから湧いた、止められぬ衝動が……。
フッ……。
「ぅおひゃっ!!」
耳の中に息を吹きかけられたゴローくんが、手をグーに握って必死に耳を掻きむしった。
「ハクトさん、やめてください」
「ごめん」
でも、三角耳をかきむしるゴローくんが愛らしすぎて……。
フッ、フーーー。
「ぅひゃっ!ぅうーーーー!いーーーやーでーすー!」
顔をふって逃げるゴローくんを追って、執拗に息を吹きかけてしまった。
「どうして苛めますか!? 僕の返事はおかしかったですか!?」
「ううん。ゴローくんが可愛かったから、つい」
「つい、なんですか?」
「オレ、くすぐったがって耳をピロピロしたり、手でゴシゴシするゴローくん、可愛くて大好き」
「よくわかりません。でも、ハクトさんがしたいなら……たまににしてください。いつもされるのは、くすぐったくて嫌です」
「うん、ごめんね。たまにしかしない」
「……『たまに』も、あんまりしないでください」
「ふふっ。わかった。ゴローくんが可愛くて我慢できなくなった時だけにする」
そして、困り顔のゴローくんを愛でながら、ごめんねのハグをした……。
…………。
そんなイタズラも今はもう出来ない。
ゴローくんの耳の焼き菓子のような甘い香りを思い出し、胸がキュッと切なくなった。
ゴローくん、会いたい……。
けど、ゴローくんはオレの手の届かない所に行ってしまった。
じっと睨みつける時計。
一秒はいつだって同じ速さのはずなのに、毎日この時間だけ、神様が遅くしているんじゃないかと疑ってしまう。
もうすぐ、もうすぐ二十一時だ。
自室のベッドに座ってその時を待つ。
携帯端末の画面が光ると同時に通話を押した。
パッと反応するとそこには……。
「ハクトさん、こんばんは」
「ゴローくーん!」
オレの愛しいペット兼恋ビトが画面に。
「ゴローくん、今日は何したの?」
「はい、朝ごはんを食べて、座って検査をして、お昼ご飯を食べたあと、寝て検査をして、お勉強とテストをしました。そして晩御飯を食べて、二十一時まで待って、ハクトさんに連絡をしました」
「へぇ、そっかぁ」
「あと、毎日する、散歩と運動もしました」
「うんうん」
正直、お決まりの報告なんかはどうでもいいのだ。
「ハクトさんは何してましたか?」
「うん、街道の美味いもの巡りの古書の紹介文を書いて、コクウん家で晩御飯食べたよ」
「そうですか。今日はお店はしなかったですか?」
「あ、いや、ちゃんと開いたよ」
モニター越しに顔を見て、話をする。
とにかくそれが嬉しい。
ゴローくんは今、たったひとりで首都のノンアノ病院に入院していた。
入院と言っても、併設された研究施設での検査と研究協力のためで、何か体に異変が生じたというわけではない。
オレは入院の日こそ付添ったが、それから二週間離れ離れ。
連絡が毎日二十一時からと決められているのは、里心がつかないようにという病院側からの配慮なのだが、ゴローくんに全くホームシックの兆候はなく、一秒たりともフライングして連絡を寄越すことはない。
会えなくて寂しがっているのはオレばかりのようで、そう思うとまた余計に寂しさが身にしみるのだ。
「ゴローくん、会いたいよ」
「明日、来るんですよね?」
「そうだけどさ……早く会いたい。会ってゴローくんにふれたい」
ゴローくんの病院滞在はあと二日。
退院前日にお迎えに行って、ゴローくんの滞在している特別部屋に泊まることになっている。
「ハクトさん、僕にふれようとすると、通話が切れますよ」
「あ、うん、大丈夫。もう、うっかりタップしないから」
毎回何かしらゴローくんに注意されてる気がするな、オレ。
「ねえ、代わりに、耳ピコピコして見せて」
「はい」
ゴローくんがオレによく見えるように携帯端末を上にあげて、大きく黒い耳をピコピコ……。
「ハァ〜癒される〜〜〜」
以前、コクウに『ほぼ百パーセント、愛らしい耳にトキメかない飼い主はいない』と聞いた時には、本当かよ?って疑ったもんだけど……うん『ほぼ百パーセント』は間違いじゃなかった。
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