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55-晴れて退院

精液まみれになった髪をザッと洗い流して、シャツはゴローくん用に置いてあったものに着替えた。 医師との面談が終わってから 1時間半以上経っている。 先方が想定していたより、かなり長かったはずだ。 「じゃあ、これを提出してくるから、ゴローくんはシャワーを浴びておいて」 個室にシャワーがついていたのは幸いだった。 あ、これ、どこに提出すればいいんだろう。 本当なら先生が取りに来るはずだったんだけど。 病棟の端からへの字に曲がった廊下を進み、中央にあるナースステーションを覗き込むと……。 「わわっ!」 「えっ!」 目の前に真っ赤になっている眼鏡のレキ先生が。 「あ、これ提出の……」 ボトルを手渡しているところに、備品を運ぶガタイのいい看護師さんが通りかかった。 「ああ、レキ先生、よかったですね。さっきから何度もゴローくんの部屋の前まで行っては戻ってを繰り返してたんですよ」 「ちょっ!ミナモトくん!……その、一時間以上経っても連絡がなかったので。ええ」 「あ、遅くなってすみません!」 「いえっ!本当は採取だけでよかったんですけど、久しぶりに会ったんだからゆっくりしたいんだろうってロクショウ先生に言われて!確かに!そうかなって!なので!問題ない!ですよ!」 真っ赤な顔に汗を浮かべ、目をキョロキョロさせながら言われても『問題ない』感はゼロだ。 「あっ!違います!ゆっくり『したいだろう』って、そういう意味じゃないですので!中の声もわざと聞いたりは決してしてませんので。それはもう、名誉にかけて!」 焦りまくるレキ先生を看護師たちが困った顔で見守る。 「すみません。本来ならレキ先生は精液採取の立ち会いだって慣れたものなんですけど、今日はちょっと調子が……」 看護師のミナモトさんが無難なフォローを入れた。 「いや!調子は悪くないよ!それに立ち会うつもりで部屋の前に行ったわけじゃない。重要なサンプルだから回収にね!ただ、想定より長かったんで……それにたまたま漏れ聞こえたゴローくんの声がノンアノらしくなかったせいで、ちょっと動揺しただけだ!だから、その、邪魔してすみませんでした!」 ぎこちない身振り手振りで言い募る。 ……そうか。 ゴローくんの喘ぎ声を聞かれてたのか。 通常なら恐らく、ちょっとイチャイチャしながら発情させ、ノンアノだけを高めて採取するんだろう。 オレだってさすがにここまでするつもりはなかった。 うう。叫び出したいくらい恥ずかしい。 でも普通こういうのって、素知らぬフリをしてくれるものなんじゃぁ……。 いや、これでもレキ先生成りに素知らぬフリをしようとした結果なのかな。 っていうか、こんなに動揺するなら様子を見に来ないでくれよ。 「あ、そうでした。この後、手術の予定ですよね。直前説明があるんでゴローくんの部屋、へ、部屋に戻っていてください。ミナモトさんロクショウ先生を呼んでくださいませんか」 全くもってぎこちないままゴローくんのいる部屋の方へと向かったレキ先生に対し、ミナモトさんが苦笑を浮かべた。 「ハクトさん、申し訳ありません。本来のレキ先生は研究者気質で浮ついたところなどないんですが、たまに理系の弱点がまるだしになってしまうことがあるんですよ。ゴローくんがアレなのでアラサー『ヒト童貞』の想像力が刺激されちゃったんでしょうね」 『ヒト童貞』って、まるで素人童貞みたいな言われようだ。 「先ほど採取中の部屋の前を何度も往復してましたけど、本人が『名誉にかけて』と言う通り覗きや盗聴目的ではないと思います。僕からも叱っておきますのでご容赦ください」 豪快な笑顔を向けられれば頷くしかない。 レキ先生は、研究となれば勃起した性器くらい平然と観察するにもかかわらず、なまめかしい雰囲気を意識した途端、てんで免疫が無くなってしまうらしい。 それって、平気でとんでもない言葉を口にするのに、 その言葉に実感が伴うと急に恥ずかしがるゴローくんと、少し似ている気がするな。 「あ、それとこういう連絡や問い合わせ時にも呼び出しボタンを使ってくれて大丈夫ですので」 枕もとにある緊急呼び出しボタンの下に小さめに通常通話用のボタンもあったらしい。 笑顔で緊急呼び出しボタンが目立ちすぎるせいで小さい呼び出しボタンにタッチしづらいですよねと愚痴るミナモトさん。 確かに緊急呼び出しボタンが、よっぽど緊急時しかさわっちゃダメそうな目を引く色合いだからか、通常通話用ボタンはまったく目に入らなかった。 しかしノンアノたちは色合いに惹かれ、ついつい緊急呼び出しボタンにふれがちだそうだ。 そんな話をしている間にも他の看護師さんが呼び出し緊急ボタンに対応し、スピーカーからキャッキャと楽しそうなノンアノの声が聞こえてきていた。 ナースセンターから部屋に戻ると、程なくしてロクショウ先生も来て、この後の手術の直前説明が始まった。 「以前にもご説明した通り、手術は下腹部に小さく穴をあけて行い、大体三十分くらいで終わります。傷が塞がると跡はほとんど残りません。当日帰宅も可能ですが、今回は研究協力ということで、明日退院の予定です。術後一週間は激しい運動を控えてください。もちろん性交渉もダメです」 ロクショウ先生の言葉に、レキ先生が真っ赤になって視線をそらした。 だから意識しすぎ……。 つられてこっちまで赤面してしまいそうだ。 「切除するのは発情に呼応して機能するノンアノ特有の器官です。切除によって寿命がおよそ倍近くに伸び、病気リスクも減少します。避妊手術に該当しますが、睾丸を取る去勢とは異なります。オスの場合、手術後も射精と同等の生理反応がありますが、その液中に精子は含まれません。気が変わりどうしても繁殖をしたいとなった場合、薬剤投与で切除部位の機能を補い、精子を含む射精を促すこともできますが、強い副作用が出る子が一定数いますのでおすすめしません。説明が義務付けられているため一応投薬についてお伝えしましたが、ゴローくんの場合は、精液採取をしてもらったので薬剤投与なしで繁殖が可能です。何か質問や不安はありますか?」 大丈夫ですと答えようと思ったら、ゴローくんが小さく手を挙げていた。 「はい。性交渉ってなんですか?どうしてダメなんですか?」 え……ゴローくん、何を……。 オレはちょっと慌てたけど、ロクショウ先生は笑顔でゴローくんに向き合う。 「性交渉っていうのは交尾のことだよ。手術では体の中に傷ができる。小さな傷でもボコボコとぶつけられたら治りが遅くなったり、さらに悪くなったりするだろう?」 出来る限り理解できるよう動きをつけて説明してくれる。 「はい。でも体の中なのに、どうやって傷をぶつけるんですか?」 「それは……えーっと」 ロクショウ先生がポリポリと頭をかいた。 「交尾の時には、えーっと、えーっと、体の中に何が入って来たりすることないかな?」 「はい。交尾の時には……。あ!入ってくるの、あります。その……その……」 「あ、理解できたなら無理に言葉にしなくて大丈夫だよ」 動揺するゴローくんをロクショウ先生が上手になだめた。 さすがノンアノの扱いに慣れている。 ゴローくんがこの検査入院中にやっていたという、様々なテストもきっとこんな感じで進められてたんだろう。 電話でゴローくんから『嫌なことなどはされていない。大丈夫』と聞かされていたけど、かなり我慢強い方だから、やっぱり不安だったのだ。 だから実際にこうやってゴローくんに向き合っているロクショウ先生の様子を見て、オレはかなりホッとしていた。 「それと、繁殖に関しては、ゆっくり考えていただいて大丈夫ですが、ゴローくんのように大きなノンアノが大型種として確立すれば、ブリーダーやショップで『大き過ぎて売れない』と判断された子たちが、様々名理由をつけノンアノセンターに送られるという不幸を減らせる可能性があります。とはいえ、繁殖した子をいきなり販売に回したりはせず、最初は研究者が飼い、研究調査対象となりますが……」 必ずという訳ではないが、若いノンアノの医者や研究者は、まず飼い主を失くした高齢のノンアノを飼い、その子を看取った後に、自分にあったノンアノをじっくり時間をかけて探し、飼うことが多いらしい。 そんな研究者たちにとってゴローくんのような少し特殊なノンアノは非常に興味をそそられる存在のようだ。 そのゴローくんの遺伝子を受継ぐ子となれば、飼いたがる研究者は少なくないだろうとロクショウ先生は言う。 「でも、研究調査対象なんですよね」 「はい。運動能力や知能など、発育段階に応じてこの施設で検査を受けることになります」 「それって……愛情不足とか……ならないですかね」 オレの疑惑の眼差しに、ロクショウ先生が笑みを浮かべた。 「ただの研究調査対象ではなく、ペット兼研究調査対象ですから……」 ロクショウ先生の言葉を引き継いて、レキ先生が明るい声で続けた。 「仕事中はロボットみたいに無表情でノンアノを検査しているよう先生でも、自分のペットとなると、ほぼ100%、人格崩壊したんじゃないかってくらいの溺愛っぷりとなります。ノンアノの研究者はノンアノ好きがほとんどんですから」 「もちろん進学時に学力的な問題でヒト向けの医学部を諦め、ノンアノに興味がないままノンアノ獣医学部に進む者もいますが、そんなヤツほどノンアノの魅力に強くからめとられてしまうものなんです。だから心配無用ですよ」 とはいえ、ゴローくんの遺伝子を継いだ子ということは、ゴローくんと他のメスとの子供ということで……。 ゴローくんがよそのメスと交尾させられる訳でもないのに、なんだか嫉妬のような感情がつきまとう。 だけど、この先何年か後に、ゴローくんのように大きなノンアノが肩身の狭い思いをしなくても良くなるかもしれないと思えば協力した方がいいような気もするし。 そうは言っても、これまであまりいなかったタイプのノンアノを増やそうという試みが命を弄ぶことのような気もして……。 「ハクトさん、今はまだお返事頂かなくて大丈夫ですので、家に戻ってからでもゆっくり考えてください。それよりも今は、手術で疑問や心配があれば、どうぞ納得するまで質問してください」 ロクショウ先生に言われ、ハッとする。 そうだ、今はそちらがメインだった。 …………。 「では、それで、よろしくおねがいします」 面談のあと、しばらくしてゴローくんの手術がなされた。 本当に手術をしたのかと疑いたくなるくらい術後のゴローくんは平然としていたが、先生がたが全て上手くやってくれたからだろう。 その日一晩の経過観察ののち、検査も全て終了、晴れて退院となった。 激しい運動さえしなければ日常生活も問題ないということなので、帰宅の前に半日ほど首都を観光を楽しんだ。 と言いつつ、ゴローくんに取り立てて要望がないのをいいことに古書店巡りになってしまったのだが。 通りを飼い主と歩くノンアノを見て、ゴローくんが清々しい顔で呟いた。 「これでちょっとだけみんなと一緒になりました」 「みんなと一緒って……?」 それが手術のことだと気付くのに、しばし時間を要した。 優良血統の繁殖用ノンアノでもないのに手術を受けさせないということは、飼い主に『長く共に生きていくつもりはない』と言われているようなものだ。 この手術がゴローくんの中でどれだけセンシティブな問題だったのか、オレはいまさらながら痛感した。 「手術が無事済んで良かったね。ゴローくんとより長く一緒に暮らせるようになったんだって思うとすごく嬉しいよ」 「はい。僕も嬉しいです」 ゴローくんがふっと柔らかく笑った。 「あ、看板に芸術古書専門って書いてある。ごめん、立ち寄っていい?」 「謝らなくていいです。ハクトさんが行きたいとこに行きたいです」 ゴローくんはこの先も、一年ごとに首都に赴いて研究調査に協力することとなっている。 それを苦痛と思わず、旅行を兼ねて楽しんで欲しいと思って今も首都観光してるんだけど。 うーん。 毎回、古書店巡りに連れ回すことにならないよう気を付けないとな。 うん。ゴローくんのためにあとでドライフルーツの専門店にも立ち寄ろう!

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