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第19話

「急な助っ人だったのに丁寧に仕事してくれて助かりました。少し時間を押してしまってすみませんね。次の担当者には言っておくので。クリーニングに出すので服もそのまま着て行っていいです。出す場所は向こうのリーダーに聞いてくださいね。」 1社目の清掃担当者は40代の男性でずっと笑顔で対応してくれたいい人だった。最後まで丁寧に接してくれて内心は嵐のようにぐるぐるしていたが、仕事に支障なく終えることができた。   「はい。お疲れ様でした。」 俺と前園さんは挨拶をしてその場を去る。前園さんが社長の美輪さんに電話をしているのを横目に俺は徐々に(つの)る焦燥に落ち着きをなくしていた。 制服をぐっと強く握りしめて、次の仕事場から逃げたい衝動と戦う。  辞めてもうすぐ2ヶ月近くが経つ。色んなところでバイトをさせてもらって不眠も味覚も良くなってきて少しずつ自信を取り戻してきた。幸い今回支給された制服には帽子着用を義務づけされているので、深く帽子を被ればなんてことはない。顔なんて見えない筈だ。ハヤナのみんなは仕事で忙しいから清掃業者は見ない。大丈夫。   「大丈夫、大丈夫……」 「風間君、待たせた。次の場所はここから歩いて5分程らしい。行こうか。」 「あ、はい。」  小さい声で暗示をかけていたのは聞かれなかったようだ。道はわかる。ここら辺は何度も通ったことのある道だ。あと5分で着いてしまう。嫌だ、行きたくない。どうしよう。   「風間君?」  行かなきゃいけないのに一歩が出ない。先に行っていた前園さんが戻ってきて俺の顔色を伺う。 「具合悪い?大丈夫?」 「あ……、えっと………。」  気づいてくれた。なんて言おう。でも俺が仕事をしないと前園さんにも美輪さんにも迷惑をかけてしまうんじゃ…。 「中と外の温度差できつくなった?少し頑張って向こうに行ったら少し休ませてもらおうか。」   「………はい。」      せめてここで休みたかったが、時間も押しており、また向こうの担当者と美輪さんに電話する手間を考えたら妥当な判断だろう。しかしそのせいで行きたくないとは言えない雰囲気になってしまった。前園さんが優しさで向こうで休もうと言ってくれたのはわかっている。いつも気にかけてくれるから。でも今は俺の逃げ道を断つ言葉になってしまった。    肩貸そうか?と心配してくれる前園さんに大丈夫です、と返事をしていつもよりも重く感じる足を一歩ずつ、勤めていた会社に向かって進んでいった。      ハヤナコーポレーションは3階建てで1階は展示場・商談スペース、2階は営業や事務などの課がそれぞれ個別にあり、3階が会議室や社長室、資料室などがある。従業員は50人程度で全国区ではないが、ここ地元では少し名の知れた企業である。50人程度なので、あまり話さなくても殆どの従業員は顔見知りであった。    久しぶりに見る会社を見上げ、喉の奥から苦い物がせり上がってきそうな気持ち悪さを感じた。 日差しのせいか目の前の景色がちかちかと光って見える。   「風間君大丈夫…、え、顔色悪くなってる!きつい?喋れる?」  前園さんが俺の顔色を見て、焦った声が聞こえた。背中をさすってくれる手を感じたが、俺は立っていることがきつくなってしまい、吐き気を感じ、口元を押さえながらしゃがみこんでしまった。 まずい。 会社の前なんて目立つところで座っていたら。誰か来たら俺だとバレる。どうしよう。立たなくちゃ。大丈夫だって言って立たなくちゃ。   「動けなさそうだね…。ちょっと待って。すぐ戻ってくる。」  そう言うと前園さんは会社の中へ入っていった。 嫌だ。呼ばないで。前園さん。 どうしよう。人を呼ばれる。無理だ。会えない。会いたくない。展示場には基本営業部が在中してるから絶対俺を知ってる。帽子ぐらいで俺だと隠せるのか?覗かれたらすぐわかる。嫌だ。せっかく身体良くなったのに。あと1週間でこのバイト達成できるのに。  俺は重たい身体に鞭を打ちながら何とか足を踏ん張り、中腰で会社から遠ざかろうとする。気持ち悪い。吐きそう。座りたい。でも。 逃げたい。逃げたい。逃げたい。ここにいたくない。いちゃダメだ。逃げなきゃ。    さっきまで心配してくれた前園さんの事なんて頭になかった。鉛のように重たい身体を逃げたい一心で動かす。    ガタ、と扉の開く音がした。 「大丈夫ですか?」と駆け寄ってくるのは社員だろう。声が頭の中を反響して誰の声か知っているはずなのに認識できない。    誰でも関係ない。嫌だ。話しかけないで。俺はここに居たくない。逃げなくちゃ。    俺が歩かないようにそっと制止し、身体を支えられた。「中で休みましょう。」と言われるが俺は行きたくなくて、会社とは反対へ進もうと動く。しかし身体に力がうまく入らず、支えている力と反発して道路にしゃがみ込んでしまった。 「歩くの難しそうですね…。ちょっと持ちますよ。」と言われて、身体の下に腕が入ってきたかと思うと、ぐっと持ち上げられ、お姫様抱っこの形になった。ずんずんと揺れる振動に歩いているのがわかる。 会社が近づいていく。 ぐらぐらとよく働いていない頭の中でどろりとした暗い波が襲う。 「また風間のせいかよー。何で俺らが尻拭いしなくちゃいけないんだ。」 「聞いた?またあいつミスしたって。まじ営業向いてねえよな。」 「風間のせいで今回訴えられそうなんだって。損失やばいんじゃね?とうとうクビか〜。」 嘲笑う顔、楽しそうに俺を非難する顔、憤慨している顔、呆れた顔が俺を見ている。   「嫌だ、嫌だ、嫌だ……」    俺はうわごとのように繰り返して言葉に出してしまっていた。   「その声……」    俺を運んでいた男の人はそう呟いて、深く帽子を被って顔が見えなかった俺の方に顔を近づけ、帽子のつばを頭の方の手でズラした。     「風間……?」      自分の名前を呼ばれて俺は思わず身体を強張らせてしまい、自分が風間である事を肯定してしまった。8月の強い日差しの中、チカチカと光る視界でゆっくりと目を開ける。 太陽を背にしており、よく見えなかったが、時間をかけて顔を認識する。 短髪の黒髪に、きりっとした切れ長の瞳の男らしい顔が見えた。     「但馬(たじま)先輩…」      俺を助けてくれたのは会社在留中、唯一優しくしてくれた先輩だった。  

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