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母親からの電話ー1

 アディは自分を食べる為に育てているのだろう。それなら、食べ頃というのはいつなのだろう。  アディの好きな、透明すぎても濁りすぎてもいない、白すぎても黒すぎても、赤すぎても青すぎても、熱すぎても冷たすぎてもいない、ちょうど良い魂で良かった。どうせ食べられるのならば、食べ頃の、美味しいところを食べて欲しい。  湊斗はアディに食べられる時を夢想して、その時はまだなのかと胸を躍らせた。  でも、高校を卒業する時も、アディが湊斗を食べる気配はなかった。成人した時も、職に就いた時も。  人生の区切りの時、アディはいつも湊斗の為にご馳走を用意して、とても嬉しそうに祝ってくれるけれど……湊斗を食べる事はしなかった。  魂の食べ頃っていつなのだろう。  人間の気力体力が充実している二十代から三十代の頃だだろうか。でも思春期の青い果実でも美味しいと思うんだけど……。  自分から食べ頃ですよと誘っても、きっとアディは自分を食べてくれたりはしないだろう。『その時』は、アディだけが知っているのだ。それならば、その時が来るまで、自分はアディ好みの魂でいられるように、毎日精一杯に生きるだけだ。  湊斗はアディの献身的な指導のおかげで希望した大学に進学し、ダメ元で受けた会社に見事に入社した。都内の一等地にあるその会社は家から通える範囲だったけれど、湊斗は入社するタイミングで家を出た。  湊斗に無関心の親は、当然家を出て行くことに反対などしなかった。ただ、湊斗の仕事内容には関心があるようで、時々話をしに帰ってこい言われたが、湊斗はそれを右から左へ流した。  新居は会社から電車で一本の、下町のワンルームマンションにした。電車の便は良いのに、物価は驚くほど安い。荷物を置きに帰るだけだろうからと、マンションのランクにはこだわらなかったから、家賃は予想より更に抑えることができた。  仕事帰り、上司や同僚に誘われて呑みに行くこともあるし、取引先との接待で遅くなるときもある。それでも、どんな時でもアディは帰りの駅のホームで湊斗を待っていた。  二人で並んで電車に乗り、最寄り駅で降りる。コンビニなどに立ち寄ることはしないで、ワンルームマンションに向かう。  アディは湊斗の部屋の隣のドアに手を掛けた。表札には知らない人の名前が書いてあるけれど、アディはお構いなしだ。 「寄っていくだろう?」 「もちろん」  そうしてドアを開ければ、そこは美しい音楽の流れる鏡の間だ。  そうした暮らしを六年送り、湊斗は二十八歳になっていた。今ではさすがに自分の部屋の隣に住んでいるのが四十代の女性だということも理解している。それでもアディは毎晩その部屋のドアに手を掛けて、湊斗も当たり前のようにそのドアをくぐった。もちろんドアの先はアディの別邸だ。不思議に思ってはならない。そういうものなのだ。  湊斗は会社で、新しいプロジェクトのメンバーに抜擢されていた。しかも初めてのセクションリーダーだ。プロジェクトは順調に進んでいるが、ひとつだけ大きな問題がある。今日は同じセクションのメンバーと飲みながら、立ちはだかる予算の壁にどう立ち向かうか、その対策を練っていた。おかげで、すっかり帰るのが遅くなり、時計の針はそろそろ日を跨ごうという時間を指していた。  鏡の間を歩きながら、アディは湊斗を振り返った。 「飲んできたんだろう?なら、食事は簡単な物にしよう。食事を終えたら、風呂に入らなければ」  アディの目が妖しく光る。湊斗は少しだけ頬を赤くして、コクリと頷いた。  いつものリビングに入ると、すでにテーブルの上には食事が用意されていた。今日の夕飯は雑穀米にとろろとマグロのぶつ切り、青紫蘇がこんもりとの乗った丼と、具だくさんの豚汁だ。ヨーロッパの城のようなこの部屋で食べるには少々ちぐはぐな気がしないでもないが、子供の頃からのことなので、二人とも全く気にしたことはない。  食事をしていると、不意にこの場にふさわしくない電子音が鳴った。湊斗の携帯だ。 「……こんな時間に……」  一瞬無視しようかと思ったが、彼らは湊斗の時間や事情など斟酌(しんしゃく)しないのだから、さっさと済ませてしまった方が良いだろう。 「はい、もしもし?」  アディに断ってから電話に出る。  それは、年に数回かかってくる、母親からの電話だった。

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