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悪魔の事典-1
何でアディは俺を食べないのだろう。
そんな疑問を持っていたのは、多分三十代の間までだったと思う。四十代にもなると、もうなんだかそういうことはどうでも良くなってくるから不思議だ。
「……だとしてもだぞ?若くてピチピチだった俺を毎日迎えに来て、あんたの城で囲ってくれるなら分かるんだよ。若木を愛でるようなもんだろ?でも、俺もうおっさんだぞ」
そう言いながら湊斗がネクタイを抜こうとするのを、アディは「そう急 くな」と止めた。
湊斗の隣の部屋────その住人は、今はミュージシャンを夢見る大学生に変わっていたが────のドアを通ってアディの別邸に行き、食事も終わって、さぁお楽しみの風呂の時間だ、と浮かれていたのに、なんで止めるのだ。今日は大事な接待で、かなり気を遣った。きっと胸の傷はいつもより多いだろうし、何より疲れているからあの広い温泉にゆっくり浸かりたいのだ。
そう思っているのに、『そう急くな』、だなんて。
「何だよ、アディ。さてはそろそろ俺の裸を見るのに飽きてきたな?でも風呂だけは入らせてくれ。風呂が終わったら俺、自分の部屋に戻るから────」
「何を気の狂ったことを言ってるんだ。もっとお前のそのスーツ姿を堪能させろと言ってるんだろうが」
「は?スーツ姿?俺、ほぼ毎日スーツですけど?」
気の狂ったことを言っているのはお前だろう、と胡乱 な目でアディを見るが、アディはうっとりとした顔で、湊斗のスーツ姿を眺めている。
「……アディ?」
「大事な接待とか言ったか。お前がスリーピースのスーツなんて着るのは珍しいな」
「……あぁ……?」
アディの目が興奮で潤んでいる。様子の変わってきたアディに、湊斗は何事が起きているのだと冷や汗が出そうになった。
「しかし私以外の男のためにそんなおしゃれをするなんて許し難いな」
「いや、今日の接待先がちょっと大物だったから……。え?でもこのくらい、普通だろ?」
「ほう?お仕置きが必要かな……?」
「いやいやいや、アディ。お仕置きって……」
どうやらアディは本気らしい。このままで行くと恐ろしいことが起こりそうな予感がして、湊斗は少しだけ考えた。
「分かった。じゃあまずこの格好のまま夕飯を先に食べよう。その間、アディは俺のこの格好をたっぷりと堪能するが良い」
「うむ」
「その後風呂だ。それなら良いか?」
「全く問題ない」
真面目くさった顔でアディが頷くのに、ちょっと可愛いな、と思いながら頷き返す。
アディを可愛いと思うのは、もうすっかり追い越してしまった見た目年齢のせいだろうか。どうも最近、アディが可愛く見えてしょうがない。なんというか……テレビに出てくるアイドルを見ているような気持ちになるのだ。
「……アディクラスのアイドルと一緒に飯を食おうと思ったら、一体どんだけ払えば良いんだ?」
「何の話だ?」
「う~ん。もったいないからじっくり堪能しなければ」
「湊斗?」
湊斗は勝手に脳内で『世界クラスのトップ俳優と一緒に飯を食べるファンごっこ』を繰り広げて一人でニヤニヤしてみる。
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