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第16話

「旦那様! 奥様が……お目覚めになりましたーーー!!」  マリナは驚くと目がまん丸くなるらしい。  ぼーっと目を覚ました蓮に、ちょうど額の布を取り換えようとしていたマリナが気づくと大声をあげて部屋から出て行った。涙声だったのは蓮の気のせいだろうか。  ここはウルの屋敷、らしい。確かに壁紙は見慣れたものだったし、なんとなく落ち着く感じがある。  そして体はまだ痛いが、あの森の中じゃないことに気づいて蓮はとても安堵した。……恐ろしかったのだ。とりあえず身体を動かすと痛いが、腕とかは折られていないし目もちゃんと見えた。自分は生きているらしい。  駆け込んで蓮に飛びついてきたのは、灰色の毛並みをした大きなオオカミだった。野生の獣のはずなのに嫌な臭いはせず、森のような匂いがする。なにより少しぽよんとしたふくよかなお腹は見覚えがあった。 「ま、まさか……ウルがウルフになった、とか……」 「私の腹はそんなに肥えていないのはお前も見ているだろうが」  ごくり、と唾を飲み込んだ蓮にすかさずウルのため息が覆いかぶさった。 「え、じゃあ分裂したとか」 「お前、まさか頭を強く打ったのか?」  口元を舐めてくるオオカミもウルと同じ深い蒼の瞳をしている。蓮としては割と本気で言ったのだが、それはウルを心配させてしまったらしい。いつもの不機嫌顔が心配顔にな変化をしていて、顔をのぞき込まれた。 「お、俺の目ってちゃんと両目ついてるってことでいいんだよね……? あいつら、どうなったの?」 「ちゃんと綺麗な琥珀の目が両方ともある。あの野蛮な者どもはそいつの腹の中だ」  素っ頓狂な声で驚いた蓮に、「冗談だ」と冗談に思えない声音でウルが言った。確かにこのふくよかなお腹には人間が入っていても……蓮が思わずオオカミのお腹を見やると、オオカミは「違う!」とばかりに短く唸った。恐る恐る蓮がオオカミのたてがみに触れても、大きな獣はされるがままになっている。顔の部分の柔らかな両頬のあたりをもふもふと触ってもまるで笑っているような顔をしてみせるばかりだ。 「ありがとう、ウルとお前が来てくれなかったら、俺今頃目ん玉取られるか何かしていたんだよね。怖いな」  なんとか明るく笑い飛ばそうとしたが、最後は声が震えてしまった。ぴん、とオオカミは耳を立てると寝台から離れた。入れ替わるようにウルが近づくとオオカミのせいでずれかけた上掛けを直してくれた。ウルの手元で金属が擦れるような微かな音がして、蓮はその音の正体に目を瞠った。 「お前にやった首飾りは唯一無二のものだ。あれは私と魂を結ぶための形代のようなものだから、今後は人に請われても易々と人に貸したりなどしないように」 「え、あ……ごめんなさい」  確かに渡された時に外してはいけないと言われていたのを思い出す。これを外して何かが起こっても知らん、と宣言されていた。 「……でも、助けにきてくれたんだ。ありがとう」  さっさと立ち去ろうとしたウルの騎士服の裾を何とか掴み、礼を述べるとウルは息を小さく吐き出し、それから苦笑を返した。 「首飾りを外したのは良くなかったが、神子に連れ去られて神子だけが一人で戻ってきたのを見た時はさすがに肝が冷えた。生きていてくれて、良かった。……これは大事にする」  怒っているとばかり思っていたのに。  不機嫌顔じゃない表情でそう言われて、蓮は笑おうとして失敗した。正確には、顔は笑っていたがぼろぼろと涙が流れ出し、止まらなくなっていったのだ。 「どこか痛むのか?!」 「……俺、おれ……違う世界に来ちゃったんだ……でも、死ななくて…よがっだああああ」  心配げに近寄ってきたオオカミとウルはぽかんとした顔でお互いを見やる。会話が成立しなくても、彼らの頭の中にはたくさんの疑問符が浮かんでいることだろう。  社会人になってから、どんなにパワハラ上司に叱られても笑顔で切り抜け、本当に辛い時は車の中かトイレの個室でしか泣いたことがなかったのに。蓮は人前で子どものようにたっぷりと泣いてから再び気を失うように眠りについたのだった。

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