35 / 96

第35話

「解放って、なんの話だ?」 「あの男を庇う必要はない。事情はすべてアルクタから聞いている」  アルクタ、と聞いても蓮の頭の中にはあの厚化粧の青年しか思い浮かばなかった。確かに頭を踏んづけられたりはしたが、どうしてウルと蓮の事情をアルクタが知っているのだろうか。首筋に顔を近づけられて蓮が逃げを打つと先ほどよりも強い力で引き戻された。 「アルクタって、あの厚化粧の男だろう? そんな奴の言うこと簡単に信じるなよ。別に俺はウルを庇ったりとかしていないし、庇う必要とかもない。修さん、どうしたの? なんか一番初めに会った時に逆戻りしちゃったみたいになっている」  無感情な目が蓮を見下ろす。食生活が正常化されたからか、修の異様にこけていた頬にも肉が戻ってきて本来のものに近いだろう整った顔がそこにはあるが、少しずつ微笑んだりするようになっていた些細な感情などまた忘れてしまったかのようだ。なんとか会話しようとする蓮の体をあっさりと寝台の上で組み敷く。目を見開いた蓮の琥珀色の瞳には、凄絶に笑う修の顔が恐怖となって映りこんだ。 「元の世界の蓮は、死んでいるそうだ」 「……俺が?」  何かの冗談かのように軽く言われて蓮は逃げを打つよりも先に思わず言い返していた。この世界にいるということは、よしんば生きていても元の世界の己はずっと眠っているのかもしれないとか、もう無事ではないのかもしれないと頭をよぎったことはあったが、こうやって断言されるとさすがに動揺してしまう。自分の『死』など本当には覚悟していなかったのだ。修の顔は笑っているようなのに、その瞳は段々と充血をして涙が溜まっていくのが見えた。 「おれが、お前を……蓮を、殺したんだ。おれはすべてに絶望して、ある日知らない街まで行って――その街にあった適当な建物から飛び降りた。何かにぶつかったことまでは、覚えている。……そのぶつかったのが、蓮だったんだ」 「は……俺……」  さすがにそれはない、と笑い返そうとして蓮の脳裏にあの時の衝撃や痛みが一気に蘇った。急に込み上げた吐き気に蓮が口元を抑えるのと、顔に再び何か温かい液体が落ちてくるのは同時だった。 「夢の中に現れた熊の話だから、真実かは分からない――分からないが、おれは……真実だと思う。おれは元の世界の時と同じ、何も変わらないのに蓮だけは……色んなことが変わった」  蓮が口元を抑えながら見上げた修は笑いながら泣いていた。だが訳の分からない恐怖に身を駆られて、蓮は己の体を動かそうともがく。腕につけられた装飾品たちが音を立てるのがとても耳障りだった。 「だから。……だから、おれは蓮を助けなければいけない。脅されているから、あの男から酷いことをされているのだと真実が言えないんだろう? その束縛を、取り払ってやる!」  男の視線が己の首元に動いたのを蓮は見た。すぐに男の目的が何かに気づくと至近距離で力は入りにくかったが反射的に男――修の体を力の限り突き飛ばして”それ”を守ろうとした。しかし、逆上した修に頬を殴られて蓮の意識は一瞬遠ざかってしまう。守る、とその口は言いながら、力づくで”それ”――ウルから与えられたエイデス家の紋章が入った首飾りを奪うと、修が蓮からすぐに離れる。 「返せ!」  「これが蓮とあの男を結び付けている、『婚姻の証』だそうだ」  取り返そうと掴みかかったところを力加減などせずに床に落とされて、衝撃で口の中が切れてしまい口腔内が血で溢れる。それにも構わず何とか声を絞り出した蓮だったが、その声は男には届いていないのか、机に用意していたらしい金づちのようなものを取り出すと思いっきり紋章が刻まれた石に打ち付け始める。 「――やめろよ!」  今の己にできる限りの声で蓮が絶叫したが、何かに取り憑かれたかのように男は石を壊すことに執念し、うまく立ち上がれず床に這いつくばっていた蓮の耳に石が割れる高い音が届いた。 「意外と脆かったな。お前と、あの男の絆もこんなものだ……蓮、泣いているのか?」  ふらふらと男が近づいて来る。蓮は感情を浮かべることなく、目の前で修の手のひらから落ちていく石の欠片たちを見ていた。 「これで、蓮は自由だ。……そして、おれが守る」  寝台へと引きずりながら抱きしめてきた男の唇が近づいてくる。それに力の限り噛みつくと、噛み痕のついた唇を歪ませて修が哂う。 「あの男に何度犯された? おれがそれ以上にお前を抱いてやる」 「……ふざけるな」    ――嫌なものは、嫌と言っていい。  ウルの言葉が蘇る。蓮から出てきたのはいつも恐怖を感じた時に出てくる不自然な笑いではなく、断固とした拒絶と怒りだった。

ともだちにシェアしよう!