61 / 96
番外編:王太子宮の庭より
「あー、変な時間に起きちゃったかな」
何か怖い夢を見ていたのだが、夢に驚いて目を覚ました蓮はすぐに寝付くこともできず大きなあくびをしながら寝台から降りた。
庭を望む窓からは月の光が柔らかく降り注いでいる。元の世界では睡眠を削って働いていたせいで、こちらの世界に来てしばらくは夜寝てしまうのがもったいないようにも感じたこともあったが、スローライフな今は寝ることも楽しみの一つだ。
「……なんかもう、怖い夢って思い出したら負けって言うよなあ。思い出せば思い出すほど忘れられなくなるって、聞いたことがあるぞ」
なるべく思い出さないようにと、ぶつぶつ唱えながら部屋を出てみた。暗いところは苦手なので、月の光で割合明るい中庭に思い切って出てみる。昼間とは違う神秘的な光景に蓮は目を瞬かせた――その時。
不意に、視界の片隅で何かが動いた。
「えーっと、もしかしてジンジャー? ジンジャーだよね、ジンジャーだと言ってくれ!!!」
ジンジャーだと思い込みたくてそう呼んでみると、視界の片隅で動いたモノはささっと蓮の前を通り過ぎていく。それは随分と小さいように思えた。
「……レン?」
後ろから低い声で呼びかけられ、「ひょあああ!」と変な声を出しながら蓮は飛び上がった。腰を抜かしかけつつ何とか振り返ると、そこには寝衣のままのウルが立っていた。
「めずらしいな、こんな夜更けに。いつもならぐっすり寝ているだろう。多少いたずらしても起きないくらいに」
「ちょっ、いたずらって俺に何しているんだよ?! ……まあ、今はそんなことを議論している場合じゃない。なんか怖い夢見ちゃって、ちょっと明るいところに行きたかったんだよ。ウルを起こしたら悪いかなって思っていたのに、ウルも起きていたんだ?」
まあな、とウルが笑う気配がする。今夜は会議が夜にあったとかで帰りが遅く、蓮は自分の部屋で眠気に負けて寝てしまっていたので、ウルが帰ってきていたことにホッとする。それにしても、さっきの物の怪らしき物体を確認する必要がある。そもそも、こんな夜更けにウルこそ何をしているのだろうと蓮が首を傾げると、ウルの足元からひょこりと獣が顔を出した。
「オオカミ……の、子ども?」
「迷子らしい。子どもの声のようなものが聞こえて、出てきてみたら……いた」
ウルは犬やオオカミといった獣の言葉がなんとなく分かるらしい。雑草が勢いよく育ってしまう蓮のどうでも良い能力と比べると、格段に神がかっているような気がするし、羨ましい。
「迷子かあ。なんだ、じゃあうちの庭にいればいいよ。誰か迎えに来てくれたらいいね」
通じるかは分からないが、しゃがみこんでウルの足元に隠れている仔オオカミに話しかけると仔オオカミが小首を傾げた。直接手を触れないのは、以前あまり人の匂いを移すのは良くないと注意されたことがあるからだ。
「ウルはあれだね。捨て猫とか捨て犬とか、拾っちゃいけません! って自分で言っておいて、自分が放っておけなくてこっそり世話をしちゃうタイプと見た」
「…………まあ、そうかもしれないな」
ちらりと蓮を見てからの、ものすごく間のあるウルの返事に蓮が目を瞬かせる。そんな時に茂みから再びガサガサと音がした。仔オオカミ同様に蓮もウルの足元に逃げると、茂みからジンジャーほどではないが大きなオオカミが現れた。仔オオカミはささっとウルの足元から離れて大きなオオカミに近づくと、まだ小さな尾をパタパタと振って見せる。
「父親らしい。きっと、近くに群れもいるんだろう」
「おお、良かったねえ。お城では見られなかったからマリナにまた騙されたって思っていたけど、まさかここでオオカミのこどもが見られるなんて……良かった、あの仔は一人ぼっちじゃないんだね」
まだウルの足元近くにいた蓮は、ホロリとしながら一人で頷いている。ウルは複雑な表情で蓮を見やると、自身も蓮の隣に座り込み、まだ目を潤ませている蓮の目元を拭った。
「なるべく一人にしないように気を付けているつもりだが……寂しいか?」
「んん? あ、俺のこと? ぜーんぜん」
あはは、と明るく笑うとウルが安堵する気配がした。
「そういえば前汚しちゃった服とか、神官さんたちが手作りで用意してくれていたんだってね。俺、そんなすごい気持ち込めてもらった服に申し訳ないことしたなと思って。今度、ちゃんと謝りに行こうと思うけど、ジンジャーに手伝ってもらって神官さんたちに手紙を書いてみたんだよ。ジンジャーがウルにもちゃんと確認してもらえってすごい言うからさ。明日あたり、おかしくないか見てもらえないかな……忙しいのに、ごめんね」
「神官たちはリコス神と神子が第一だから、レン自身が無事であればそれで良いと考えているとは思うが。それより、レンが手紙を書いたのか? 本を読むとすぐ眠気が、とか言っていたのに進歩だな。そういう書こうと思う気持ちがあるだけで、神官たちは涙を流して喜ぶんじゃないか。朝食を一緒にとりながら、見せてもらっても?」
少し驚いてから、ウルは揶揄することもなく言ってきたので蓮は照れた。
「大人になってから褒められるなんてなかったのに、手紙書いただけでその言い方はずるい。ウルの褒め褒め攻撃って結構くるね」
「そうか? 他者の迷惑にならぬよう、前向きに歩もうと努力している者をけなしたところで仕方ないと思うが」
はー、と蓮は感動した表情でウルを見上げた。
「なんかこう、ウルってギャップがすごいよねえ。もっと鬼の騎士団長感満載キャラだと思っていたのに」
「オニとはなんだ?」
意外なことに、この世界では『鬼』が翻訳されなかった。それよりも危なく余計なことを言ってしまうところだったな、と笑ってごまかしているとウルが訝し気に見てから嘆息した。
「どうせ、今さらっと悪口でも言ったのだろう」
「ええっ、悪口じゃ……ない、のではないかと」
なんだその言い方は、とウルが苦笑いする。ちょうどよいタイミングと言っていいのか、先ほどのオオカミたちらしい遠吠えが近くで聞こえた。一頭だけ、小さくて下手な遠吠えがまじっている。
「なんて言っているんだろう。助けてくれてありがとう~とかかな」
期待に満ちた眼差しでウルを見ると、ウルはふっと鼻で笑った。
「今度は美味しいものでも出してくれ、じゃあな、と言っている。レンみたいだな」
「えええ~~~?! 俺、そこまで図々しくはないつもりだったんだけど……いや、図々しいな? ちゃっかり美味しいご飯ただで食べさせてもらっているもんね」
真剣に悩み始めた蓮に、ウルは声を出して笑いながら「冗談だ」と言うと、蓮はもう一度「えええ……」と間抜けな声を出すのだった。
***
「……というわけで、これが手紙です。手紙を書くって、あまりしたことないから緊張しちゃった。しかも自分で申し出ておいてなんだけど、読まれるのって恥ずかしいね」
朝食を終えてから、ほけっとした笑い顔で蓮が便箋を差し出してきた。ウルは穏やかに笑い返しながらそれを受け取る。手紙の出だし部分――挨拶のところを見ると丁寧な字で書かれていて、密かに練習していたのが分かる。普段からのんびりとしているように見えても、誰も知らぬところでの努力や苦労を厭わないところもあるのが己の伴侶だ。だが、努力した成果や頑張りを評価されることには一切慣れておらず、すぐに恥ずかしがる。一体どんな世界にいたのかと心配になることがあるくらいだ。
「ジンジャーが教えてくれたから大丈夫かなって思うんだけど、失礼じゃないか念のため……」
確認してほしいと言ってきた蓮を横目に見ながら頷くと、短い手紙を読み進める。最初は穏やかに微笑みながら読み進めていたウルの顔は、段々と苦虫を噛みつぶしたような表情へと激変していった。
「……あの狼神め、何を考えているのだ」
唐突に荒れ模様となったウルに蓮がドキドキとしていると、蓮が確認を頼んだ手紙を四つ折りにした。そして自分の服の胸ポケットへとしまい込んでしまう。
「ええっ、そんなに失礼なこと書いていた? 一応、文章を間違えていないかとか、ジンジャーに教えてもらったんだけど」
「――しっかり文章にはなっている。間違えているわけでもない。だが、神官に渡すには過激だからこれは私が預かっておく。お礼の手紙の書き方は、今日戻ってきたら私が教えるから」
か、かげき? と動揺している蓮を置いて立ち上がるとウルは「そろそろ行く」と告げて、まだ悩んでいる蓮のつむじへと口づけを落とした。
「奥様。お手紙には何と書いたのですか?」
蓮付きの侍女としてすっかり定着した猫亜人のマリナが、興味津々といった様子を隠せずに聞いてきた。蓮は少し悩んだ後、中身が奪われてしまった封筒にジンジャーに教えてもらった一文を書いてみる。それを見せると、マリナは「にゃにゃっ?」と漏らして、目を細めた。
「な、なんでその反応? やっぱりなんか、恥ずかしいこととか、書いてる?」
ウルに続いてマリナの反応がいつもと違うことに蓮の動揺は収まらない。さすがに助けて、という表情になった蓮に、マリナは口元をつり上げてニヤリとしてみせた。
「奥様ったら。”いつも気にかけてくれてありがとう。愛しています。”だなんて、旦那様へのラブレターじゃないですか~。んもう、朝っぱらから熱すぎてマリナは辛いですにゃー、じゃない、辛いですわ」
「あ、愛して……?」
衝撃に固まった蓮だったが、無表情のままゆっくりと立ち上がると中庭に向かって駆けていく――が時すでに遅く、リコス神は姿を消していたのだった。
Fin.
ともだちにシェアしよう!