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リコス国編(本編続編)~彼が靴を作り始めた理由:01

『リコス』  そう呼び掛けると、目の前を歩いていた白い影が振り返った。  住処(すみか)を焼き払われ、たった一頭だけ仲間からはぐれたから偶然生き残ることができた、小柄なオオカミ。そのオオカミと出会ってから、『彼』は変わった。  人語を話し、ときおり人と同じ姿も取ることができる――リコスと名乗った小柄なオオカミは、生死を司り、花を降らせるのが好きな神狼だった。   暴力を持って国を切り開いた己に、その存在は脆くて恐ろしいと思っていた。  けれど。傍におくうちに、一緒に過ごすことが楽しくて――いつの間にか、手放すことができなくなっていた。  人の姿に変じたリコスが、大きな琥珀の瞳を開いて、こちらを見上げてくる。それから『どうしたの?』と、人好きのする笑顔で返事をしてきた。  柔らかな髪に触れると、嬉しそうに目をとじている――その表情が、堪らなく愛しかった。 「リコス。もし、わたしの肉体が滅ぶ日が来ても――魂だけになっても、お前の傍にいられるだろうか」 『ええ? いきなりどうしたの。まだまだ若いんだから、そういうおじいちゃんみたいなことは考えなくてよろしい』  神狼はそう言って朗らかに笑うと、再びオオカミの姿へと変じて『彼』の前を駆けていく。花神でもあるリコスが駆ける先では、どんどんと花が咲き綻び、草花が嬉しそうに揺れる。    まだ、名もなきこの国が。  リコスに決まったのは、この後すぐのこと。 *** 「あら、奥様。早いお目覚めですね」  むくりと起き上がった蓮に、彼付きの侍女――マリナが気付いて声をかけた。しかし、いつもと違う様子の主人に気づいて近づき、ぎょっとなる。両の掌を不思議そうに見ている自分の主が、泣いていたからだ 「おおおおっ、奥様っっ! どうなさったのですかにゃ?!」  大きな猫の目をまん丸くして慌てて問いかけてきた侍女に、主――蓮は首を傾げた。 「いやー、良かった、夢だったみたい。実は、ごんぎつね風の夢見ちゃってさあ。あ、俺がごんね」 「にゃ? ゴンギツネ、ですか?」  そうそう、と蓮が頷いた。  蓮は元々、この世界の住人ではない。飛び降り自殺未遂にうっかり巻き込まれ、気づいたら裸でこの異世界に転生するというとんでもファンタジーな体験をした。強制参加させられた告白イベントで、警護にあたっていたウルという騎士(実は隣国の王族)の上に落ちてしまい、成り行きで夫婦となった。  とんでもな事件はその後何度も続いたが、何とか今も無事、新しい世界で蓮は日々、生きている。 「ごんっていうのはイタズラ好きなキツネの名まえで、そういう物語があったんだよ。なーんか時々、似た夢を見るんだよねえ。怖かったなあって思うんだけど、あまり中身を覚えていないというか」 「そうでしたか。とりあえず、お腹が痛いとかじゃなければ良いのですが……まだ旦那様も下にいらっしゃいますよ。お話されますか?」  アルラ国で騎士団長を勤めていた時も朝が早かった旦那様――ウルだが、リコスに戻り、王太子となってからは更に朝が早くなった。その分、緊急のことがなければ午後には王太子宮に帰ってくるので、夜まで一緒にいられることが多いのは正直嬉しい。王太子宮に戻ってからは王太子として割り振られた執務をしていることが多いので、ウルが遊んでいるわけではないのだが。ようやく慣れてきたアルラから離れて、また新しい生活となったためか、寂しいような気持が自分の中にある。ウルが近くにいるとほっとする感じがした。 「大丈夫、だいじょうぶ! ウルが帰ってきて、まだ覚えていたら話そうかな。でもさ、この頃忙しいみたいだし……夢の話なんて、聞かされても困るんじゃないかな」 「奥様のお話なら、旦那様は夢のことだろうが虫のことだろうが、喜んで耳を傾けられると思いますけども。……では、このマリナめが! 今日一日、奥様はっぴーつあーを決行させて頂きますわ! まず、朝食が終わりましたら、お着替えしましょうね」 「は……はっぴー?! ちょっと待って、俺の翻訳機能ではっぴつあーって聞こえたんだけど!? ……それって、楽しい系のことでちゃんとあってる?!」  虫の話もウルは喜んで聞いてしまうのか……と真剣に考えていた蓮は、マリナの言葉がよく聞き取れず慌てていると、まん丸いマリナの瞳がすっと細くなった。 「もちろん、楽しいことですわ。猫は、嘘をつきません。自分に正直ですから」  ふふっと笑ってマリナが部屋から出て行った。猫は嘘をつかない、と言っていたが、言いくるめられたことが何度もある蓮は、顎のあたりに手をあててまた考えこむ。しかし、そんな思考も長くは続かなかった。 (まあ、いいか。早く起きられたし、いろんなことをできる時間があるってことだしね)  両の腕を思い切って伸ばし、窓辺に近づくと、ちょうどウルが王太子宮の門から王宮に向かうのが見えた。 「おおっ、今日も格好いい」  朝陽が差し込む中、黒く長いたてがみが特に美しい愛馬に跨って出立するウルは、早起きしないと見られない光景だ。護衛役の騎士たちも複数いるが、その中でもウルが際立って格好良い――そう思う自分に照れながら、蓮は窓を開いた。 「ウールー、いってらっしゃーい!」  蓮の精一杯の声量でも、ウルがいるところまで届くか微妙なほどには離れているのに、ウルはすぐに蓮に気づいた。ウルはいつも、蓮のことに気づいてくれる。不思議だと思うけれど、それがとても嬉しい。ぶんぶんと手を振っていると、ウルも微笑を浮かべて手を軽く振り返してくれたが、蓮は窓から身を乗り出しているうちに、支えにしていた片方の手を外した。がくんと身体がぶれて足が浮きかけたが、後ろから掴まれてゆっくりと床に足が戻ってくる。  後ろを振り返ると、蓮の服を必死に掴んでいる顔面蒼白のユノーと、猫尻尾が思いっきり膨らんだマリナがいた。 「レン! 無事なのか?!」  王太子として格好を整えたウルまでが、窓の下に駆けつけてくる声がする。 「「……お゛、奥様あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……!!」」 「ご、ごめんなさいぃいいい!!!」  侍女二人から悲鳴に近い怒声を浴び、蓮は窓の下で縮こまりそうになったが、窓の外からも「おい!」とウルの声が聞こえる。 「ぶ、無事なので……ウルも、気を付けて……」  二人にまだ服の裾を掴まれたまま、窓から小さく手を振ると、ウルが安堵した表情になった。まずい。これは、帰ってきたら小言が来るパターンである。 「殿下、神子殿はご無事ですか?!」  ああ、ウルを護衛する騎士たちまで駆け付けてきてしまった。 「無事だ。いつものことながら……騒がせてしまったな」  苦笑するウルの声。「皆さまもご無事で……」と蓮も窓から騎士たちに手を振ると、笑顔で騎士たちが一礼し、ウルと共に門へと向かっていく。元の世界でなら確実に激怒される案件と思われ、蓮はこの世界の優しさに感じつつ(この優しさに慣れちゃうのも、危険だな)と自戒するのだった。

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