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リコス国編(本編続編)~彼が靴を作り始めた理由:21

 神殿の中では、唯一残ったキャニスの木を狙われるという、ひと騒動が起きていた。幸い神子の間に神子はおらず、キャニスの木を傷つけられる前に犯人を確保することもできたが、その犯人の容姿が獣人とも違う異形であった。魚のようなヒレがあるかと思えば、顔や体全体はまるでパイ生地のような、幾重にも積み重なられたもので作り上げられており、顔の表情を伺い見ることも出来ない。 「神官長、これは一体……」  あらゆる事態を想定して鍛え上げられてきた神官たちではあるが、このような異形はさすがに想定外だ。しかし、神官たちで取り囲んだ異形は、怯えているのかぶるぶると震えている。 「なんかこう……全体的にパイのようなものに覆われていますが、これも流れの神になるのでしょうか」 「流れの神は異形が多いというが、こんなマルウオのパイみたいなのもそうなのかな。ここはやはり、神子殿に見て頂かないと」  そうだ、神子殿だと神官たちは盛り上がったが、肝心の神子が見当たらない。 「神子の間から、一体どちらへ……?」  心配顔で立ち上がった神官長の耳に、にゃあと猫が鳴く声が聞こえた。神殿の扉は締めているので、猫の子一匹通れないはずである。  足音静かにやってきた大きな黒猫は、立ち上がったままの神官長の足元に小さな石のついた首飾りを置くと、さっと神子の間へと駆け去っていった。 「これは……」  猫が置いて行った首飾りを拾い上げると、その石にはリコス王家の紋章が刻まれている。この首飾りを持っている者といったら――。 「まさか、神子殿は……」 「神官長! 王太子殿下が、エデュカよりご帰還されました!」  神官の一人が駆けこんできた報告で、神官たちは真顔で一斉に立ち上がるのだった。 ***  ぐうううう、というお腹の悲鳴に、蓮は項垂れた。皮肉なことに、目の前ではジェルタが晩餐の席についている。ほくほくと上がる湯気や、食欲をそそる匂い――それらから必死に視線を逸らそうとしても、身体は正直に反応する。お腹がすいた。  修に攫われた時のように拘束はされていないものの、座らせられている椅子の両隣には騎士が一人ずつ、付いている。ちらちらと騎士たちを見やったが、仮面をつけている彼らの表情を伺い見ることは出来ない。まるで、人形みたいだ。 「さあて。晩餐の準備も整ったところで、神子殿もいかがかな」 「えっ」  思わぬ声掛けに、きゅう、とお腹が喜んでしまう。 (くそう、俺のお腹が裏切ろうとしている……この正直者め……!)  流されたいところだが、ここで流されてはますます自分が不利になるだけだ。蓮はお腹を宥めながらジェルタに琥珀の眼差しを向けた。 「俺の夕飯は、神殿の皆さんが作ってくれているから、いらない。それより、さっさとその真実の薬とやらを出したらどうなんだ。そんな薬、実在しないんじゃないのか?」  薬は吐き出してやれば良いくらいに考えていた蓮が、思い切ってけしかけてみると、男はにんまりとした笑みを返してきた。 「やはり、見かけよりも気が強いお方ようだ。折角、神子殿の最後の晩餐にと、腕によりをかけて拵えさせたのだが……」  ……最後の晩餐。元の世界ではとても有名な、絵画が頭の中で一気に広がる。あれはそう、裏切り者が描かれていた。 「仕方がない。飲ませて差し上げなさい」  蓮の隣に立っていた騎士の一人が、近くにある棚から小さな瓶を取った。日本茶のような、緑色をした液体。 「最後って、どういう意味――」  嫌な予感がして、意味を確認しようした時、隣にいたもう一人の騎士がいきなり蓮の首を掴んできた。あまりにも突然のことで、必死に口を開けて抗議をしようとしているうちに、緑色の液体が口の中に注ぎ込まれる。それと同時に首の力が緩まると口を塞がれ、そのまま嚥下してしまった。苦しくて、椅子から床に落ち、膝をついて咳き込んでいる蓮の前に、ジェルタが近づいてきた。 「いやあ、本当に残念です。こちらとしても、貴方を懐柔できるならそうしたかった。もっと大人しく、こちらの話を聞いてくれる方ならそのままでも良かったのだが――どうも、貴方は王太子殿下同様に、私とは馬が合わないようだ」 「……なんで、そこでウルが出てくるんだ?」  何とか立ち上がりながら蓮が問い返すと、男はにんまりと笑んで見せる。 「どうも、あの方は随分鼻が利くようで。私が部下に作成させた訓練報告書に虚偽があるだの、横領疑わしいだの文句をつけてくる。まあ、都度部下に責任は取らせていたが。  それとなく金を使って誤魔化そうとしても清廉潔白を気取っているのか、その周囲すらもこちらの志を受け取って頂けない――そんな方が太子のままでは、私の出世には邪魔なのですよ。あの男を王太子の地位から追い落とすには、貴方が偽者か――もしくは、失踪してくれればよい。しかし、万が一真実貴方が神子だったとしたら、殺してしまってはリコス神とやらがお怒りになるかもしれませんからなあ。そこで! 真実の薬ですよ」 「……そんな、通販番組みたいな口調で悪事をぺらぺらと……」  ウルの立場をどうにかしようとする者たちがいる可能性については、マリナたちからも聞いてはいたが、早速登場してくるとは。しかも、既にウルから怪しいと睨まれているあたり、小物感がすごい。さすがに蓮も呆れたという表情になったが、不意に大きく心臓が跳ねて、思わず自分の胸のあたりを抑えた。 「おお、そろそろ効いてきましたか。その真実の薬は、キャニスの木から作られているという、神の力が宿るもの。それを飲むと、その者が持つ本性やら執着するものやらに姿を変えられてしまうのです。たとえば、マルウオのパイの贋物で商売をしようとした商人を、その贋物に似た姿に変えたり、キャニスの木の世話に心を奪われた樹医は、木とそっくりの姿になったり――」 (あの木の魔人は、やっぱり……ハルノアのお兄さんだったのか!)  自分でも心配になるくらいの鼓動の早さに、ふらふらとしながらも蓮はジェルタを必死に睨みつけていた。もし、あの木の魔人がハルノアの兄である、樹医のニストだというのなら、ハルノアや蓮に何かを訴えようとしていたのも納得がいく。そして、ニストを追い詰めたのは――ジェルタだ。ニストをとことん追い詰め、謝る必要もないジェルタのところに謝りに来て――そこで、この薬を飲まされたのだとしたら。 (伝えなきゃ……!)  神官たちに。あれは、流れの神などではなく、ハルノアの兄なのだと。下手をしたら、討伐されてしまう。 「さあ、神子殿。神子殿はどんなお姿になるのでしょうなあ」  どんどん、ジェルタが近づいてきた。逃れようと後退ったが壁際まで追いやられて、とうとう背中が壁にぶつかる。長身のウルたちと比べると中背で肥満体型のジェルタだが、その大きな腹が蓮の身体にくっつきそうで不快だ。しかも、もし自分の心に住み着いているものに姿を変えられてしまうのだとすると。 (まずい。お金か、食べ物に姿が変わってしまう……!!)  木の魔人なんて清いものに変身できる自信が、まったくない。  混乱している蓮の顎を、ジェルタが掴み上げてきた。 「人の姿でいるうちに、愉しませてもらいますかねえ。貴方の『オオカミの瞳』が、辱めを受けて涙で潤むのを見るのも楽しそうだ」 「趣味が良いこって……!」  舌なめずりをしたジェルタの醜い顔が近づいてくる。 (さっ……さすがにこれは……!!)  酔っぱらったパワハラ上司に、エレベーターの中で何故か迫られた時のことが突然頭に浮かび、咄嗟に相手を蹴り飛ばしていた。「うがっ」と情けない悲鳴と共に、ジェルタが尻餅をつく。その反動で蓮も強かに背中を壁に打ち付けてしまい、床に座り込んだ。 「こちらが下手に出ていれば……!!」  憤怒の表情で、ジェルタが近づいてくる。何か、武器になる物はないかと探す蓮の視界に、花瓶が映りこんだ。お高そうな花瓶で心が痛むが、今はそれどころではない。あともう少し、というところで足を摑まれ、引きずり倒される。仮面をつけている騎士たちは、無言のまま蓮の両腕を抑え込んできた。抵抗の声を上げようとしたが、自分から出たのは――犬が唸るような声だった。 (声が……でない?)  じわじわと神子である証が刻まれた胸元が痛み始めて――かたく蓮が目を瞑った時、再びジェルタの情けない悲鳴と共に、身体が軽くなった。 「ばっ、化け物ぉーー!?」  荒々しい息遣いと、どたばたとした音。恐る恐る目を開けると、蓮の目の前には今ここにいるはずのない、ジンジャーがこちらに背を向けてジェルタを威嚇しているのが見えた。斬りかかろうとする騎士たちをあっさりと躱すと、ジェルタの首元を銜えて振り回し、騎士たちと共にまとめて床へと叩きつける。ジェルタはといえば、巨躯のオオカミが顔の真正面で大きな顎を開いた途端、断末魔かと思う程の絶叫を上げた。 (た、助かったあ……)  ここまで来れば、大丈夫。ほっとした蓮はジンジャーに声をかけようとしたが、やはり犬が唸るような声しかだせない。嫌な予感がして自分の手を見ようとしたが、そこにあるのは犬っぽい白い前足だった。ぎゃっと蓮が騒ぐと、ジェルタを抑えにかかっていたジンジャーが振り返ってくる。 『リコス……』  ジンジャーが目を見開いてそう呟いた時。ジンジャーの姿は、青い閃光と共に、まるで煙のように消えてしまった。 「今のはなんだ! む、こちらにもオオカミが……まさか、これが……神子か?」  大きなオオカミが忽然といなくなったことに気づいたジェルタが上体を起こすと、蓮を見てきた。蓮も立ち上がろうとするが、手足がうまく動かない。思った通りの動きをしてくれない。 (まさか、真実の薬のせいで……?)  お金の魔人あたりにならずに済んだのは幸いだったが、人から本当に姿が変わってしまうとは、ファンタジー要素過剰もいいところだ。頼みの綱のジンジャーがいなくなってしまった。再び窮地に陥った蓮の前でジェルタはニヤついたが、男が蓮の身体に触れようとしたところで、暢気に扉をノックする音が響き渡った。 「なんだ、今は食事中――!」 「旦那様、王太子殿下が急遽こちらにいらっしゃいましたが、いかがいたしましょう?」  年老いた家令が、間延びした口調で客人の訪いを告げる。苛立たし気に舌打ちをしたジェルタだったが、チラリと蓮を見やると、にんまりとした笑みを浮かべた。 「まあ良い。お会いしよう。そこにいるオオカミの首には、縄でもつけて縛って騒げないようにしておけ!」  ジェルタの命令で、仮面をつけた騎士たちが腰に付けていた縄を手に取るのが、蓮の視界に映りこんだ。

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