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リコス国編(本編続編)~彼が靴を作り始めた理由:23

「殿下。レン様はいらっしゃいましたか?」  エデュカからずっと走り通してきたため、ウルの愛馬は途中で休憩を取らせている。急遽手配された馬車の近くで待機していたオーヴァが、ジェルタの屋敷から戻ってきたウルに声をかけた。それに一瞥だけを返して馬車に乗り込むと、出発するよう告げる。満月に近いせいか、いつもよりも明るく感じる夜道を行く馬車の中は静かだ。  膝の上で抱きかかえた白いオオカミは、小柄だがしっかりとした生きているものの重みがある。ジェルタの屋敷の中で可能な限り気配を探ったが、あの屋敷で唯一違和感があったのはこのオオカミだけだった。  すっかりとジェルタの屋敷が見えなくなり、馬車と並走するのはオーヴァを始めとした己の護衛だけなのを確認してから、ウルは「レン」と己の伴侶の名を呼んだ。ぴくりと常のオオカミより少し丸い感じの耳が動き、不安げな琥珀色の瞳がウルを見上げてくる。それから、鳴き声よりも先にぐう、と腹の音が返事をしてきた。オオカミの耳が、元気なくぺたりと伏せられる。 「……まあ、間違いはなさそうだな」  断言するウルの声に、頭を持ち上げたオオカミが、大きく尻尾を振ってきた。  ウルはオオカミの言葉を理解することができる。それは人同士で会話をしているように、人語としてはっきりと聞こえるわけではないけれど、今まで言葉を理解できないオオカミはいなかった。それなのに、目の前にいるオオカミの声からは、何の言葉も聞き取ることができない――それは、目の前にいるこの綺麗な生き物が、『正真正銘のオオカミではない』証拠であるように思えた。 「お前の声が聴けないのは、辛いものだ」  姿形は違っても、レンなのだと分かる眼差し。しかし、言葉を交わすことすらできない今、不安そうにこちらを見ているレンに、一方的に話しかけることしかできない。何より、常にレンを守護してきたリコス神が現れないのも気になっている。 (もしかして、レンの姿が変えられてしまったせいで、現れることができない、ということか……?)  神子の行方が知れないとなれば、確実にこの国には激震が走るだろう。ウル自身の進退はともかく、神殿や王にも人々の疑問の眼差しが向けられる。ジェルタが何をどうやってレンをこの姿にしたのかは分からないが、さすがにウル以外の者たちに、リコス神もいない状況でこのオオカミがレンだと信じさせるのは至難の業だ。しかし、ウルの内心としては国のことなどよりもレン自身のことが心配だ。  くう、と甘えるように鳴きながらこちらを見てくる琥珀色の眼差しに気づいて、ウルは苦笑した。一番不安で仕方がないのは、今目の前にいる己の伴侶だろう。 「お前が元に戻れる方法を、急いで探さなければな」  柔らかな毛並みに覆われてはいるものの、さすがに服を着ていないのもな、と考えて己の外套で包んでやると小首を傾げてくる。「ウルは大丈夫なのか?」とでも言いたげだ。その前足は、爪が痛み血が滲み出て白い毛並みを汚している。  あの暗い部屋の中で助けを求め続けていたのだろうか。  王太子宮に着くまで、少し頼りないオオカミの首のあたりを、ウルはずっと抱きしめていた。 ***  夜に突然帰還した主に、王太子宮はちょっとした騒ぎになった。マリナは一足先に戻っており、硬い表情のまま出迎えたが、主の姿がないことに気づき、衝撃を受けた顔をしながらウルを見てきた。 「食事を用意してくれ。なるべく味が薄めのものを。このオオカミに食べさせたい」 「は、オオカミ……ですか?」  侍従たちが戸惑う声を上げる中、さっさと自室に入ると寝台の上にオオカミを丁重に乗せる。ウルを追いかけてきたらしい二つの足音が止まり、扉をノックしてきた。扉の向こうには、マリナとユノーがいた。 「旦那様、奥様は……っ」 「レンなら、そこだ。術なのか何なのかは分からないが、どうやってか姿を変えられている……だが、レンだ。証拠を出せと言われれば、腹の音で返事をしてくるということくらいなのだが……」  そこで、うう、とオオカミが唸った。こちらを見ながら尾をぱったんぱったんと大きく振っている。 「……確かに、反応が奥様っぽいですわ」  うんうんとユノーも頷いてから、涙が滲んだ目でウルを見上げてきた。 「私達、奥様がたとえオオカミのままでも誠心誠意、これからもお傍に仕えさせていただきます。旦那様、どうか奥様を……!」  分かっている、とウルが頷き返すと、二人ともほっと息をついた。それから、「そういえば……」とおもむろにユノーが口を開いた。 「以前、奥様からこんなお話を聞きました。奥様のお国のお話なのだそうですが、獣に変えられてしまった殿方が、姫への真実の愛で人の姿に戻れたとかなんとか……きっと! 旦那様なら、いけます!!」 「ユノー、目が血走っていますわ。……旦那様、このマリナからもよろしくお願い申し上げます!!」  侍女たちは熱い眼差しをウルと、寝台にいるオオカミに向けてから勢いよく頭を下げると、涙を拭いながら走り去っていった。寝台にいるオオカミは目を丸くしたまま、こちらを見ている。扉を閉めると、再び静寂が戻った。  寝台に腰かけると、オオカミが恐る恐るといった風に、にじり寄ってくる。 「怪我の手当てもしなければ。ジェルタから方法を吐き出させることが出来れば良いのだが……。マリナたちが言ったからではないが、どんな姿をしていても、私はレンのことを愛しているよ」  ウルがそう声をかけると、じりじりと近づいていたオオカミが、ぴたりと動きを止めた。薄暗い部屋の中でも分かる、琥珀色の瞳が驚いたと言わんばかりに瞬きを繰り返し――それから、ぎゅぎゅっとお腹の音が鳴った。 「怪我の手当てもだが、早く空腹をどうにかしなければならないな。もしかして、何も食べていないのか?」  恥ずかし気にオオカミが前足に自分の顔を埋める。痛めているつま先に触れないように気を付けながら前足を避けさせると、ウルは優しい表情で微笑んでからオオカミの額のあたりに口づけをした。オオカミは大人しく、されるがままになっている。  ウルが祈りを込めて瞳をとじると、触れているところの感触が変わった気がした。 「ウル……?」  目を開くと、大きな琥珀色の瞳と、視線が合う。全裸ではあるが、そこにいるのは――人の姿をした、己の伴侶だ。 「レン……戻れたのか?!」 「あ、うん……そうみたい」  ぺたりと寝台の上に座り込んだレンは、不思議そうに己の手を見ている。 「ウル、おれ……会いたかった……!」  レン自身の手から、ウルへと、レンが視線を上げてくる。その瞳からは涙が零れているのに、ただひたすらこちらを見てくるその様が、あまりにもいじらしくて、ますます愛しく思える。力強く抱きしめながら、形の良いレンの唇を貪っていた。長いこと口づけを交わしてようやく顔を離すと、伴侶がはにかみながら笑いかけてくる。 「……お腹ぺっこぺこ」  そうレンが呟くのが聞こえて、ようやくウルは安堵の息をつくことができた。

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