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第8話
「宿っていないね」
おそらくそうだろうと思っていた。最初に交わってから半月ほど昼も夜も二人で睦み合っていたけれど、ウタウは自分の体の変化を感じなかった。トラとシシには分からないらしく、ただ黙って互いの不死者を抱いて座っている。
「どうしてそうなる? トラ、ちゃんとできてるのか?」
「やってる! やってるよ!」
「俺が、鬼の子だからかな……俺がちゃんとしてないから」
「やだ、ウタウ、悲しくならないで」
「うーん……」
トオルはざっと頭の上から下までウタウを見たあと、トラを見た。どう見たってお互い思い合っているし、ウタウはここに迎えたときより格段に色っぽくなって胎も熟している。骨盤もちゃんと宿せるように開いているようだし、トラも若くて精力旺盛だからなんの問題もなさそうなものだが。
「トラ、シシ、二人にしてくれる?」
「だめだ」
シシが吠える。けれどトオルは譲らない。
「シシ、約束したでしょう。約束を守らない子はお仕置きだよ」
「それとこれとは話が違う」
きゃんきゃんと吠える獣に、トラがお願いする。
「シシ、二人にしたらウタウの体のこと分かるかもしれない、お願い……」
うるうると弟分に縋られて、意地を張っているほうが格好がつかないと分かったのだろう。シシはトオルを唾液まみれにして、トラを引き連れて部屋を出た。
「また体を見るの…?」
広い部屋に二人だけ残されて、ウタウは少し身構える。
「ううん、たぶん今見てもトラの痕跡しか分からないから……」
おいでと、トオルはウタウを呼ぶ。数歩、椅子と椅子の間を歩く足が痛い。とても温かくて、大地はウタウに厳しい。トオルは同じ長椅子にウタウを乗せて、そっと髪を梳いてくれた。初めて近くで見るトオルの髪は、ウタウほど長くはないが先が銀色に透けて美しかった。
「あのね、俺も一回だけシシを宿せなかった時期がある」
「どんなとき?」
「ずいぶん前のシシが死んでしまって、その思い出がとっても幸せで、もうこれ以上の幸せはないって思ってしまったとき。次の小さいシシを育てるのは楽しくできたんだけど、そのシシが雄として成熟したときそれを受け入れられなかったみたい」
トラの言っていた、いろいろあったことの片鱗が垣間見えた。
「どうやったら、今みたいに孕めるようになったの?」
トオルはうっとりと笑った。
「時間をかけて、シシとの思い出を作って、その思い出の中にずっと前までのシシを見つけたんだ。あのね、シシは代替わりをするけれど魂は変わらない。俺が愛したひとりの男は永遠なんだ」
「……わからないよ」
ウタウにはまだそこまでの覚悟がない。強い思いもない。ただトラとこのまま幸せに暮らしていけたらいいと思うだけだ。
「つまり、俺の気持ちの問題ってこと?」
「……うん、そういう可能性が高いと思う。最初に見たときお前はちゃんと『不死者』で、いまもそう。だけど獣人そのものを孕まないということは、原因は体じゃなくて魂にある」
「……魂って、なに?」
「お前をお前たらしめるものだよ」
「そんなのない! 俺は、そんなの持ってない…!!」
「ウタウ!?」
「トオル!!」
ウタウの上げた声で獣が入ってきてしまった。すぐにお互いの腕の中に閉じ込められる。
「シシ、聞こえてた?」
「いや、聞かないようにしていた。でも大きい声がしたから」
「なにかあった!? だいじょうぶ!?」
ウタウは恥じ入ってうなだれる。
「なにもないよ。トラ、今まで通りにしてあげて」
「ウタウ、ほんとう?」
「……ほんとう」
ぎゅっと、ウタウはトラにしがみついた。抱き返してくる力強さに応えられない自分が情けなくて、ただ悔しかった。
「こんなときに言うのも憚られるが、トラ、もうすぐ風の祭りだろう」
「うん」
シシが珍しく歯切れの悪い話し方をする。
「……風の祭りって何?」
「えっと、作物がちゃんと育つように、ちゃんと大地に風が吹き下ろしますように、悪いものは全部風が持っていってくれるように、お祈りする祭り!」
「トラは風を守る獣人だから、それに代表として参加するんだよ」
「…知らなかった、いつ?」
見上げると、トラは照れくさそうに頬をかいたあと言い淀んだ。
「あ……あの…ううん、まだ内緒」
「…そう」
「ウタウ、拗ねないで。トラもいろいろあるんだよ」
「拗ねてない」
ぐりぐりと、胸に頭を押しつける。情けない気持ちと自分だけ除け者にされた気持ちで、涙が出てきてしまいそうだった。
「ウタウ……」
これまでの100年、自分はこんなに弱くなかった。ひとりでずっと生きていけると思っていた。でもこの生き物に出会ってしまって、変わった。
「トラ、部屋に帰ろう、帰りたい」
「うん。シシ、トオル、またね」
トラに抱かれて、応接室を後にする。伝わってくる振動とトラの息遣いだけがいまのウタウの全てであってほしかった。ぎゅっと目を瞑る。
「ウタウ、いい子……かわいい子、小さくて、冷たくて……」
出会った頃に口ずさんだ歌をトラが繰り返す。まるで愛されているかのように紡がれる歌には、ある一つの言葉が欠けている。
(あ……)
ウタウはそれに気付いて、猛烈に恥ずかしくなった。自分がどれほど傲慢だったのかを悟り、どれほど我儘だったのかを見せつけられていても立ってもいられなくなった。
「あ、いや、やだ!」
「えっ!?」
抱き上げているときにウタウが暴れることなど一度もなかったので、一瞬トラは怯んだ。その隙にウタウはトラを蹴って、半ば崩れ落ちるように地面に身を投げた。
「どうしたの!?」
四つ足の獣のように、ウタウは乱れた姿勢のまま城の廊下を駆け出す。足が痛いのなんてどうでもいい、いなくなりたい、ここから逃げ出したい、こんな気持ち嫌だと、必死で階段を降りようとする。けれど所詮はただの人間の男の体、獲物を逃すまいとする獣の本能には勝てなかった。
「うわっ!」
「ふーっ、ふーっ……」
どん、と全体重をかけて圧し掛かってくるトラからは、獣らしい唸り声がする。毛も逆立っているようだ。
「……逃がさない、だめ、ウタウはオレの、だめ……」
「いたっ」
がぶがぶと首や肩、腰に強く噛みつかれる。愛されていると錯覚してしまう、だけど。
「……トラは、俺のこと」
「ん…?」
「俺……いや、このままここにいたくない」
「どうして? オレなにか怖いことした?」
「ううん、ううん、違う」
床に座り込んで、トラがウタウをぎゅっと抱きしめる。どこへもやらないという強い意思表示が嬉しくて、同時に悲しかった。
「ウタウ、部屋に戻ろう? 部屋で、ちゃんと座って、ゆっくりしよう」
しゅんと毛が萎れてきている。自分が逃げ出すことの衝撃はトラにとっても大きいのだ。それは分かる。それを確証としてもいいのだろうか?
「トラ、お願い」
「うん」
「俺がこのあと、なんて言っても、俺のこと捨てないで」
「うん!」
大きな答えに、ウタウは嬉しくて抱きついた。ふさふさの獣の手がゆっくりと背中を撫でてくれた。
部屋に着くと、寝台にウタウを座らせたトラは櫛を出してきて毛先から丁寧に髪を梳いた。最初は絡まってしまい大変なことになったが、今では職人のようにさらさらにすることができる。
「ウタウ、ウタウ…かわいい子……小さくて、冷たくて……」
向き合う形で歌いながら髪を梳くつがいに声をかける。
「トラ、あのね」
「うん、なあに」
「その歌に、ない歌詞がある」
「ない歌詞……?」
難しかったようで、手が止まる。
「もしかしたら、獣人とか不死者は持ってない感情かもしれないんだけど、でも……俺はそれがほしくなってしまったんだ」
どうしよう、こんなこと言って捨てられたら、もういらないと言われたら、また閉じ込められてしまったら、もう一人では生きられない。
「ウタウがほしいもの、教えて」
けれど真剣な眼差しで見つめてくるトラを信じたい。ないものだったとしても、この気持ちは止められない。
「……好きって、言って」
「え?」
もうだめだ、だけどだめなら最後まで、とウタウは目を瞑った。
「俺はトラが好き。だけどトラは一度も俺に好きって言ってない。歌にも出てこない。俺はトラが好き、大好き、もしトラにこの気持ちがあるなら、聞きたい」
ほんの数秒、返事がないことがこんなに苦しいなんて。100年の孤独よりずっと怖くて、ずっと死にたい気持ちだ。祈るように両手を固く握っていたことに、トラの温かい掌がそれを覆ってくれてやっと分かった。
「ふふふ」
トラが笑う。恐る恐る目を開けると、トラは嬉しそうに笑って頬を擦り付けてきた。
「ごめんね、ウタウ」
「…うそ、いや」
続きが聞きたくなくてウタウは顔をそむけた。追ってきた獣の口に、ふっと口づけされる。
「気付かなかった。そうだね、好きって言っていなかった。当たり前だったから……不安にさせてごめんね。好き、ウタウ、好き。ウタウだけが好き、ずっと好き」
「ああ、うわああ」
ウタウは泣き喚いた。
「怖かった、この気持ちがトラになかったらどうしようって、うう、うう」
「ごめんね、確かに、あんまりシシも言わないかもしれない、ごめんね、もしかしたらあんまりオレたちは言葉にしないのかもしれない」
「体だけが、獣人を孕める体だけがほしかったんじゃないかって、トラはそんなはずないのに、一瞬で、俺がそんなことをずっと疑ってたって、それに気付いちゃった」
「ごめんね、ウタウ、これからは言うからね、歌うから」
「うん、うん……」
胸の中に招かれて、優しく、ゆっくり撫でられる。ささくれだって怯えていた心が丸く落ち着いていくのを感じる。頭の中がだんだん整理されてきた。
「あのね、トラ……」
「うん」
「俺、恋がしたかった」
「恋? 恋……?」
「分かる?」
「分かるよ!」
見上げたトラは誇らしげに胸を張った。
「オレがウタウに思ってる気持ちが、恋!」
「うううーっ!」
「うわっ!?」
嬉しくて、ウタウがトラを押し倒す。長い髪の天蓋で愛しい獣を隠す。
「じゃあ今日から、俺とトラは両想いの恋人ね。恋をしようね」
「うん!」
ウタウはトラに、口づけの雨を降らせた。
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