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第3話
『てーしゃつ』は、瞬く間に本丸で広がった。その理由はやはりこの不思議な着物が審神者からの贈り物ではないかという噂のせいだろう。刀の付喪神である以上、持ち主に気に入られたいのは持って生まれた性のようなものだ。彼らはこぞってそれらに袖を通し、初めて主に名前を呼ばれたと喜んでいた。
そしてついに『てーしゃつ』を着ていないのは、小狐丸と加州清光の二振りだけになってしまった。
梅雨には珍しく晴れた朝、小狐丸は審神者に呼ばれて部屋を訪れた。
許しを得て襖を開くと、十日ぶりに会う主が柔和な笑みで小狐丸を迎えてくれる。
「ぬしさま」
中に入って挨拶をすると彼は苦渋の表情でこめかみを叩いていた。
「えぇと、君は……小……小……」
(頑張れ、ぬしさま)
それが己の名を思い出そうとしているのだとわかると、小狐丸は祈るような気持ちで応援した。
目の前の顔がハッと目を見開くと、確信を持った笑みでこちらを指差した。
「仔猫ちゃん!」
「小狐丸です」
がっくりとうなだれるように頭を下げて小狐丸は名乗った。相変わらず主は眉を寄せて申し訳なさそうに笑っている。
「猫でなく狐だったか。すまない、君の髪を見ているとどうも愛らしい猫に見えてしまってな」
言い訳のようなことを言われても、小狐丸はわずかに口角を上げただけでまともに笑うこともできなかった。
呼び出されたのは遠征の令かなにかと思っていた小狐丸だったが、審神者から飛び出したのは思いがけない言葉だった。
「Tシャツは気に入らなかったか?」
まさかそれを聞くために呼び出されたとは思わず、小狐丸は一瞬言葉を詰まらせた。
『てーしゃつ』が審神者による贈り物だというもっぱらの噂だ。身につけないことが彼の怒りに触れたのかと思うと、小狐丸は足元から冷たいものが這い上がってきた。細い髪を振り乱し、慌てて首を横に振る。
「い、いえ……そういうつもりでは……」
「私は昔から物覚えが悪くてね。皆が私が名前を間違えるたびに傷つく顔をするもんだから、私も心苦しい。しかし何度やっても覚えられないものは覚えられない。あれは、苦肉の策だったんだよ」
噂は本当だったんだという驚きと、そこにあった理由に、小狐丸は己の愚かさと恥ずかしさに顔が真っ赤になった。畳に額を擦り付けるように深々と頭を下げる。
「ぬしさまの気持ちも知らず、つまらぬ意地を張ってしまい、申し訳ありません……」
「いいんだ、いいんだ。誰にでも趣味というものがある」
「いいえ、そのようなものはありません!」
自分でも驚くほどの大声を上げて、審神者を見上げた。気弱な男の驚いた顔がこちらを見ている。小狐丸は気まずそうに視線を落とすと、今度は蚊の鳴くような震えた声で断りを入れる。
「今すぐ部屋に戻って袖を通してきます」
「まあ、待ちなさい」
目も合わさぬまま、立ち上がろうとした小狐丸を彼が制した。審神者は立ち上がると、引き出しから一枚の『てーしゃつ』を取り出して、畳に添えた手の前に差し出される。
「部屋に戻らなくても、これを着たらいい」
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