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第4話

 そう言われて断る理由もなく、その布を手に取った。その場で着替えるのか少し迷ったが、彼の目が促すように見えて、着物の袖を落とした。帯だけ残して肌を露わにさせるのを主は楽しそうに眺めている。恥ずかしさに逃げ出したくなったが背中を見せるのも憚れて、照れた顔を隠すように『てーしゃつ』を頭から被った。  そうして袖を通したが、その『てーしゃつ』は無地であった。 (何も書かれていない)  不思議になって、眩しいほどの白い布を見つめていると、主がやんわり指示を出す。 「少し横になってくれないか」 「……横に?」 「そうだ、仰向けになってくれ」  言われるがまま仰向けに転がった。視界から彼が消え、何やら墨を()るような物音が聞こえる。不安に視線を泳がせたが、主の背中が見えるだけでよくわからない。しばらく妙な時間が続いた。不意に影が現れたかと思うと、影は仰向けになったままの小狐丸に跨った。 「ぬ、ぬしさまっ!」 「こら、動くな」  素っ頓狂な声をあげて、起き上がろうとする小狐丸の身体をやんわりと押し返される。その手に墨の付いた筆が握られるのを見て、おずおずと再び畳に背をつける。 「墨が身体に付くだろうが、我慢してくれ」  そう断って、主は小狐丸の身体の上に筆を滑らせた。布越しに筆の感触が伝わってただただ困惑してしまう。 (な、な、なにを……っ)  驚愕のあまり、声も出ない。ただ口をぱくぱくとさせて、その動きを凝視することしかできなかった。  筆の筆圧は軽く、指でなぞられるような感触だった。胸の上で予測不能な動きに鳥肌が立った。自分が半紙にでもなったような気分で、小狐丸は恥ずかしさに顔が熱くなった。 「ぬしさま……その、くすぐったくて……」 「それも辛抱してくれ」 「……っ」  嘆願する声すら上擦ってしまい、唇を噛んだ。  辛抱してくれと言われても意識すればするほど、くすぐったくて仕方がない。油断すると妙な声をあげてしまいそうだ。きつく両目をつむると、なにやら生き物に身体を弄られているような感覚に陥ってしまう。   「顔を見ながら描くと間違えようがないからな」  暗闇に耐えていると、不意に優しい声が降ってきた。薄く目を開くといつも困った笑みばかり浮かべている見知った顔が、ひどく真剣な目をして胸元に視線を落としていた。生き物のように感じていた筆が彼の手によるものだと思うと、立っていた鳥肌が引いていくのがわかる。 「私には少しばかり絵心があってな。名前を素っ気なく書くよりも、こちらの方が性に合っている」  手を動かしながら、そんな風に語ってくれた主に返事をするのも忘れて、小狐丸は間近の姿を見つめていた。手を伸ばせば触れる距離に主がいる。障子越しに柔らかな朝日に照らされた彼の顔を目に焼き付ける。なんとも静かな朝だった。時折、彼が確認するように視線がこちらに向くたびに、鼓動が高く体内に響いた。その音は胸の上で筆を踊らせる彼に届くのではないかと思うほどだ。  こんなに間近に彼を見ることはもうないかもしれない。そう思うと、小狐丸はこの時間がずっと続けばいいのにと願わずにはいられなかった。 「よし、終わったぞ」  そんな言葉とともに顔を上げた審神者はいつもと同じ頼りない笑顔に戻っていた。そして彼はいとも簡単に小狐丸の上から離れてしまった。  墨が乾くまでそのままでいなさいと命じられ、仰向けのまま待った。少しでも風通しが良くなればと障子が開けられ、遮られていた眩しい光が差し込む。主は縁側の向こうにある中庭を眺めている。小狐丸はそのまっすぐな背中をじっと眺めていた。

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