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第6話
「俺、スガから一週間出てくるな、って言われちゃったんです。だから、ずっと、部屋にいます。大杉さんの好きな時に来てください」
そう言って、比良木から部屋の合鍵を大杉は貰った。
こんな風に始まりたくない。
これではまるで発情を解消するだけの相手のようじゃないか。
部屋に篭ってるということは、比良木が他の誰かと関係を持ってしまう心配はない。
ならばこの鍵を何も今使わずとも、一週間後、発情期が収まった頃に改めて部屋へ訪ねていけばいい。
でもその時に、なんで来たんだ、と思われないだろうか。
この鍵は明らかに比良木からのお誘いだ。
ただ部屋へ訪問するだけではなく、性行為を求められている。
発情期だから。
発情期を一緒に過ごす相手として大杉は選ばれたのに、発情期後に訪ねて嫌がられはしないだろうか。
一日中鍵を握りしめ悩んだ挙句、大杉は比良木の部屋の前まで来た。
鍵を使おうとして、思い直し、呼び鈴を押した。
暫くしてドアが開き、大杉を見つけて驚いた比良木が、次の瞬間には大笑いしていた。
「鍵を渡したのに」
「ごめん」
なんとなく、戸惑われた。
比良木ががこの訪問をどんな風に受け止めているのかはわからない。
けれど自分にとっては酷く大切な、重要な一歩なのだから。
きちんと礼儀を通したい。
鍵を使うのはそれからでいい。
「入って」
「お邪魔します」
比良木に促され入った室内で、大杉は息を止めた。
充満するΩの匂い。
「あー、比良木さんが俺の車嫌がったの、今ならわかる…」
「え?」
昨日はこの部屋に辿り着いた時は大杉も興奮していたし、比良木からはすでに発情時のΩの匂いがしていたから気付かなかった。情事の後も、そうだ。
今は比良木からは発情時の匂いがしないのに、部屋の中は比良木の匂いで充満してる。
普段の比良木の匂いに発情時の匂いが混じって。
くらくらしてくる。
「もしかして、今日抑制剤使ってないんですか?」
「え?ううん、使ってますよ。でもどうせ部屋に篭ってるんだし、ちょっと激しい衝動が抑えられればいいかなと思って、持続性の高いいつもの奴じゃなくて、効果の薄い短期間の奴、ですけど」
「あー、どうりで…」
鼻を少し擦って纏わり付いてきた匂いを払う。
そういう意味で誘われているのはわかっているけれど、もう少し、普段の比良木に関わりたい。
「え⁈なに、匂う?」
大杉の様子に、比良木が青くなってきょろきょろ辺りを見渡した。
「あ、大丈夫。気にしないで下さい」
「で、でもっ」
真っ赤になって、ぱたぱたと窓まで走り寄ると、一気に開け放した。
少し冷たい風が入ってくる。
「すいません、気付かなくて」
真っ赤なまま俯き加減ですっかり畏まってしまった比良木に、申し訳なくて体の前で腕を振った。
「いえ、俺こそ、来て早々不躾な…」
「いえ…」
二人して体を縮こませて向かい合う。
どうしよう、すっかり雰囲気が悪くなってしまった。
ふと別の匂いに気が付いて、そちらを向いた。
それに気付いた比良木がまた慌てて戻ってくる。
ぱたぱた小さな足音を立てて、走ってくる姿が可愛い。
「俺、何か作ろうと思って…」
「え、料理してくれるんですか?」
小さなキッチンに向かった比良木の後を追う。
真っ赤になって大杉を振り向いた比良木はカウンターに広げたまな板の上を見下ろした。
「うん、ほら、食べに出たりとかできないし…」
大杉も近付いて覗き込むと、恥ずかしそうに更に赤くなる。
「で、でも、あんまり上手くいかなくて、大杉さんがくる前に出気上がってる予定だったんだけど」
まな板の上には切ってる途中の野菜の、無残な姿。
思わず大杉は吹き出してしまった。
大杉に笑われたことでますます比良木は赤くなった。
「あ、ごめん、ごめん」
慣れてないのは一目瞭然。
でも自分のために慣れてないことをしようとしてくれたことが嬉しくて。
「なに作ろうとしてたんですか?」
「や、野菜炒め?」
逆に聞き返されて、更に大杉は笑い出す。
さすがに比良木は拗ねたように唇を尖らせた。
「もてなそうとしてくれたんですよね、ありがとうございます」
大杉が言うと、尖らせた唇を戻して視線を落とした。
「…でも…」
簡単な料理も出来ない、と小さく呟いたので、その肩を軽く押した。
「うん、大丈夫。変わります」
「え?」
スーツの上着を脱いで比良木に渡した。
きょとんと見つめる比良木ににっこり笑いかけると、袖をまくって包丁を持つ。
「わぁ…」
慣れた手つきで野菜を切り始めると、肩口から覗き込んだ比良木が溜息のような感嘆の声を出した。
ざくざくと荒く切った野菜をまな板を傾けて包丁でボウルに移すと、比良木からきらきらした視線が飛んで来た。
そんな難しい事をしているわけではないのに。
面白くて、つい口元が笑う。
「もしかして、慣れてる?」
「たまに自分で作るんですよ。外に食べに行くのが面倒な時とか、食べたいものを置いてる店までが遠かったりとかした時に」
「…えー…、俺、そう言う時コンビニ弁当だよ」
ささっときった野菜を洗って、網に移して豪快に振って水を切る。
「それだと飽きるでしょ?」
「飽きるね」
比良木が吹き出すように笑うと、大杉も笑った。
「だから、作るんですよ。…他には?」
「え?あ、え?」
比良木はいつの間にか大杉の服を掴んでまで見入っていて、声をかけられて慌てて離した。それからあたふたと冷蔵庫を開ける。
「何か、入れるの?」
聞いたのは大杉だったのだが。
大杉は笑いながら、比良木と一緒に冷蔵庫を覗き込む。
「う、わぁ、随分買い込んでますね」
「ん、だって、一週間分のつもりだったし」
菅野の言いつけをきっちり守るつもりだったんだな、と大杉はふ、と息を漏らした。
買い物ぐらいは出てもいいだろうに。
比良木が自分をじっと見ているのに気付いて、冷蔵庫の中を物色した。
「あ、肉、入れましょう?」
「うん!」
比良木の目の前でパック入りの肉を取り出すと、嬉しそうな顔で比良木は冷蔵庫を閉めた。
調理器具はきちんと準備されていたので、あとは作るだけ。
肉を炒めて野菜を入れて。
大杉が手際よく料理する間、比良木は楽しそうにその手元を覗き込んでいた。
途中から比良木の手が自分の腰を掴んでいることに気付いたが、大杉は素知らぬふりで料理を続けた。
皿に盛って、小さなテーブルに広げて。
茶碗にご飯を注いで来た比良木と向かい合って座ると、二人で手を合わせて「頂きます」と言い合った。
「おいしい」
ただの野菜炒めを美味しそうに頬張る比良木に、大杉は嬉しくなる。
「胡椒とか効きすぎてないですか?」
「全然!ちょうどいいよ」
「それは良かった」
大杉も後を追って箸をつける。
人に作ってやったことなんかないので少々不安だったけれど、比良木の笑顔を見ると安心した。
ふと比良木は逆にこの笑顔を見たかったんだろうなと思うと、申し訳ない反面嬉しかった。
「あ、ビールあるんだった、飲む?」
「じゃあ、ちょっとだけ」
比良木が嬉しそうに立ち上がって、冷蔵庫からビールの缶を二つ抱えて戻って来た。
そのうちの一つを手渡してくれる。
「あ、どうも」
比良木が口元を緩めたままで大杉を見ながら缶を開ける。
大杉もそれに習う。
一口飲むと、ぷはーっと息を吹き出した。
その大杉を見て比良木が笑う。
「お疲れ様。忙しかった、今日?」
「まあ、それなりに」
「営業だもんね。外回りばっかりじゃない?」
「うん。でもずっと会社に篭ってるよりは気晴らしもできるし」
「そっか」
「でも気疲れは半端ないけど」
「だろうね。俺たちも営業みたいなことするんだけど、スガと外回りの営業が別に欲しい、っていつも言ってるんだ」
「はは、菅野さんも比良木さんも営業向かなそうですもんね」
食事をしながら軽くアルコールを摂取し、軽い話をしながら笑いあって。
散々往訪を迷っていたけれど、来て良かった、と大杉は心から思った。
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