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第8話
比良木は事務所の自分のデスクに両手で頬杖を付き、書類の上の細い棒をじっと眺めていた。
もう結構な時間、そうしている。
見かねた菅野が声をかけた。
「ちょっと、ちゃんと仕事してくださいよ。いつまで発情期ボケしてるの」
「う、ボケてない」
それでもまだ動かない比良木に眉を寄せ、机を覗き込んだ。
「ちょ、それ!妊娠検査薬じゃないですかっ、どゆこと」
「や、あの」
思わず身を乗り出した菅野が、ほっと息を吐いた。
「なんだ、陰性?それともまだなの?」
「…陰性…」
小さく比良木が答えると、菅野が少し笑いかけた。
「良かったじゃないですか」
そう言ってまた自分の机に戻っていった。
「なあスガ、俺たちって、発情期に中だしされると妊娠するんだよな」
「まあ、普段からかなり確率は高いですけど。発情期は100%に近いって聞いてますね」
「だよな」
眉を寄せた比良木を、菅野が咎めた。
「あなた、まさかそれ狙ってたんじゃないでしょうね⁈」
「え⁈え、そ、そうじゃ、ないけど」
「…ほんと、わかりやす…」
呆れたように菅野が言う。
「もしかして、発情期限定の関係だから、子供でもとか考えた?」
「ち、ちが」
慌てて顔を真っ赤にする比良木を冷たい目で菅野は見つめた。
「…溺れすぎ…」
比良木は黙り込んで、また検査薬を眺める。
「なんで、出ないんだろ」
「そりゃ、避妊したからでしょ」
「俺してない!」
「はいはい、あなたの目的は違いますもんね。だから大杉さんの方じゃないですか」
菅野はPC画面を覗き込んだ。
「へ?どゆこと?」
比良木がきょとんと首を傾げたので、菅野は呆れてしまった。
「無知すぎ!今はαが飲む避妊薬もあるの!うちも両方で飲んでるし」
「そう、なんだ」
感心したように呟いてから、比良木は思いついたように菅野に勢いよく向き直った。
「でも、おかしくね?だって遼は俺に会うまでΩにあったことなかったのにさ」
また菅野の白い目が比良木に向けられる。
「…遼、ねぇ…」
「あ」
比良木は赤くなって俯いた。
「まあ、いいですけどね。他に考えられないでしょ。それに、期間限定の関係じゃなくなったんだから、もういいんじゃ?」
「な、なんで」
「だって、良く会ってるんでしょ?」
「な、なんで」
「わかりますよ、スマホのメール見ながらにひゃにひゃ笑って。そそくさ帰る時もあるし」
「………俺、溺れすぎ?」
「ちょっとねぇ」
菅野に苦笑いされると、比良木はしゅんと肩を落とした。それからまたちらりと机の上を見る。
「…俺にΩの機能がない、とか…」
「それはない!それなら発情期こないでしょ」
「…うん…」
「なに?そんなに子供欲しいの?」
「じゃ、ねーけど。…番になるのは、こえーじゃん?解消されたら、俺、間違いなく発狂するよ」
「…まあ、それだけ溺れてたらあり得ますねぇ」
「だから、アリ、かなあって思った」
椅子をガタガタ揺らしていると、菅野に煩いと怒られた。
「スガはさ、溺れたりしなかったの?」
突然話を振られて、菅野は驚いたように目を見開いた。
それからふっと自嘲気味に笑った。
「…しましたよ、親にバレる前後とか。…堕胎の時は必死に逃げ回りましたから…」
菅野は堕胎経験が一、二度あるらしい。
比良木も詳しくは聞いてないので、というか聞くと決まって菅野が暗くなるので聞かないようにしている。どちらも葉山との子どもらしいが。
もう一度、検査薬を眺め、比良木は溜息を吐いた。
一代決心をして挑んだのに。
徒労で終わってしまったのか?
子供が欲しいわけではない。
ただ、本当に期間限定だと思っていたし、こんな始まりをして長く続くわけがないと思っていたから。
せめて、愛して貰った証が欲しかっただけだった。
身体に残った跡は消えてしまうから。
本能に流されるだけの性質だから。
この先、誰と交わるとしても。
自分の意思はただ一つだと、思いたかった。
我ながら乙女チックだと思うと笑えた。
ブブブブブッ!
「ひゃっ!」
突然なりだしたスマホのバイブに比良木が飛び上がった。
菅野が変な声、とけたけた笑っている。
ちょっと睨みつけながらも、確認したデイスプレイに映し出された名前に、思わず口元が緩んだ。
「う、わあ、誰からかすぐわかるわ、それ」
そんな冷やかしに舌を見せて、胸を高鳴らせながら通話ボタンを押した。
「遼?」
『あ、ごめん、仕事忙しかった?』
「いや、大丈夫。どしたの」
『ん、昼、一緒出来ないかなあと思って』
「え」
思わず菅野を振り向くと、首を傾げられた。
『ダメ?』
「や、大丈夫」
反射的に首を振りながら答えた。
いや見えないでしょ、と菅野がツッコミを入れたのが聞こえた。
『じゃ、また後で、時間がわかったら連絡する』
「うん、俺の方はいつでもいいから」
『わかった、後でね』
「うん」
通話を切ると、また菅野がからかってきた。
「その笑いやめなさいよ。まったく、あの比良木さんがここまでデレるんだから。将樹が信じてくれないのもわかるよ」
「あ、葉山ちゃんに何言ったんだよ」
「別に。事実しか言ってませんよ。信じてくれないけど」
そう言ってコーヒーのマグカップ片手に椅子の上に足を立てて、片手でタタタンとキーボードを叩いた。
「そうやってかわい子ぶってても、すぐバレるんだから」
「ぶってない!」
「うわあ、自覚なしだよ。で、なんて言ってきたんです?こっち見てたけど」
「あ、昼一緒しようって」
「え」
菅野が少し驚いたようにして、それから笑った。
「良かったですね」
こくん、と頷いてからハッとした。
「あ、ごめん。葉山ちゃんと出るんだよな⁈」
「や、うちはいつも一緒ですから」
「ダメだ!葉山ちゃん、いつも楽しみにしてるんだから」
そう言いながら、比良木は大杉へ電話を掛けた。
数回の呼び出しの後、大杉の声が「はい」と聞こえた。
「あ、ごめん、今いい?」
『どしたの』
「さっきのだけど、スガが恋人と約束してるの忘れてて」
『え、じゃあダメってこと?』
「あ、いや。…そうだ!事務所じゃダメ?留守にはできないからさ」
『え、いいの?』
「うん、こっちは平気」
『じゃあ行くよ』
「うん、ごめん」
『いいって。じゃ、後で』
「うん」
比良木が通話を切ったことを確認してから、菅野は苦笑いした。
「良かったのに。うちがここで食べればいいんだから」
「でも葉山ちゃんの職場より、遼の方がここに近いから」
そう答えた比良木に、菅野がまた苦笑した。
「でも、大杉さん営業でしょ。出先から来るんじゃない?」
「あ…」
正午を告げる音楽が外から漏れ聞こえてきた。
比良木がちらりと見やると、菅野はまだ動かない。
「…行かなくていいの?」
比良木が聞くと、吹き出された。
「いってほしいみたいに言わないでくださいよ、傷つくなあ。ちゃんと大杉さんと入れ替わりででてくから」
「え、でも葉山ちゃん…」
「ああ、時間ずらすみたいで。大丈夫って言ってた」
「そんなん、悪いじゃん」
「先に出て、変な場面に出くわしたくないだけ」
「へ、変なってなんだよ」
「深い意味はありませんよ。俺も将樹も邪魔したくないだけ。幸せになって欲しいんですよ、比良木さんにはね」
そう言って笑う菅野に、胸がぎゅっと締め付けられた。
「…そんな、自分たちが幸せじゃない、みたいに言うなよ…」
比良木が言うと、菅野は苦笑いした。
「…そんなつもりはなかったんですけどね…」
コンコン!とタイミングよくドアがなった。
比良木に笑いかけて立ち上がった菅野がドアを開ける。
「あ、れ?」
驚いたように菅野を見る大杉が可愛くて、比良木は微笑んだ。
「さあて、邪魔者は消えますよ」
そう言って菅野はバッグを背負い、スマホ片手に出て行った。
「いらっしゃい」
菅野をきょとんと見送る大杉に、比良木が声をかけるとにこっと笑った。
「お邪魔します」
大杉に買ってきてもらった弁当を小さなテーブルに向かい合って広げる。
他愛ない話をしながら、比良木はちらちらと大杉を覗き見ていた。
ふっと吹き出すように笑った大杉が、目だけを比良木に向けた。
「何か言いたいことあるんでしょ?なに?」
「え、あ」
俯いて、弁当を箸で突く。
「うん?」
「あの、さ、中だし、させたじゃん?」
「…あんま、飯時の話じゃないね…」
大杉が苦笑いした。
「言えっていったじゃん!」
「はいはい、ごめん。で、それが」
「あ、の、デキなかったんだけど、なんでかなあ、なんて」
「ああ、俺が避妊薬飲んでたからね。良かった」
大杉はあっさりと言う。
「なんで避妊薬なんて持ってんの⁈俺が初めてのΩだって言ってなかった⁈」
比良木の剣幕に大杉がぎょっとした。
「あ、れ、もしかしてなんか勘違いしてる?俺、聡史を自宅に送って行った日に実家に帰ってもらってきたんだよ。あんまま聡史と終わるつもりなかったし、それならそのぐらいの準備はしとかなきゃって」
「え?あ、そう…なんだ」
比良木は驚いて、それからちょっと眉を寄せて俯いた。
その様子を大杉はじっと眺めた。
「…妊娠、したかった?…」
「え、いや、そうじゃ、ないけど」
「動揺しすぎ。…俺も、させちゃっても良かったんだけど」
「え」
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