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第4話

梅雨らしい、曇天模様が広がるある日。 講義を終えた新汰は荷物をまとめると、キャンパス内をとぼとぼと歩いていた。 「あっついな…」 肌に纏わりつくようなむし暑さに舌打ちをする。 このところ新汰はずっとイライラとしていた。 当然、兄や周りには悟られないよう平静を装っている。 しかし心の中は常にどす黒い何かがずっと渦巻いている状態だった。 原因は一つ。 が上手くいっていないからだ。 いつもだったら、数回会ってしまえばあっという間だった。 こちらが(けしか)ける前から既に心奪われているものだっていたくらいなのに。 男相手、いうことはさておき、あの升谷という人間自体がなかなか手強い奴だった。 まず決して新汰と二人きりで会おうとしない。 何か勘づいているのか、それともただ単にこちらに興味がないのかわからないがこれまで新汰の誘いには一度も乗ってきた事がなかった。 そしてもう一つ。 決して目を合わせようとしてこない。 新汰はこれまで視線で相手を落とす戦術を使っていた。 目は口ほどに物を言うと云うが、熱の籠った眼差しで相手をじっと見つめれば大抵の人間はこちらを意識するもの。 しかしあの男は、兄と三人で会う時でさえも全く新汰と目を合わようとしないのだ。 つまり新汰が今まで使っていた手法が尽く通用していないという事になる。 こんなに思い通りにならないのは初めてだった。 失敗が積み重なると、それに比例して焦燥感も積み重なっていく。 こうしている間にも新汰の知らないところで、大切な兄がどんどん悪い虫に侵されていっているというのに。 未だ何もできていないのが酷くもどかしくて、それが更にストレスを生み出していた。 脳裏をチラつく升谷の姿に、忌々しく舌打ちをする。 このままじゃダメだ。 なんとかしなければならない、なんとか… 悶々としながら大学の門を出た所で、不意にトン、と肩を叩かれた。 「新汰くん」 軽やかなリズムに乗って新汰の名前が呼ばれる。 振り向くと、梅雨空とは正反対に爽やかな笑顔の男がヒラヒラと手を振っていた。 升谷糸史(ますたにいとし)。 たった今世界で一番憎たらしいと思っていた相手だ。 「こんにちは。えっと…どうしたんですか?」 驚きながらも瞬時に笑顔を作る。 我ながら凄い能力だ。 「うん、ちょっとね。家がこの近くだから…新汰君に会えるかなと思って」 予想外だった。 まさか升谷の方から新汰に会いに来るなんて。 「へぇ、近くなんですね。この辺便利だから羨ましいな。今日はお仕事お休みですか?」 「うん、そう」 今まで散々新汰を避けてきたくせにどういう風の吹きまわしだろうか。 見えない腹の中を探るように、新汰は心の中で目を凝らす。 初っ端、二人きりになった途端新汰の気持ちをズバッと言い当ててきたくえない男だ。 今日も何か言ってくるかも知れない。 しかし警戒する新汰とは裏腹に、升谷はニコリと笑うとぱたぱたとシャツを扇ぐ無防備な仕草を見せてきた。 「それにしても今日は暑いね。ね、良かったら家に来てアイスでも食べてかない?たくさんもらっちゃって一人じゃ食べきれなくて」 「え?」 更に予想外だった。 まさか升谷の方から誘ってくるなんて思ってもみなかったからだ。 あんなに頑なに新汰からの誘いを断っていたくせに一体どうしたというのだろうか。 「あ、何か予定あったかな?」 首を傾げて訊ねてくる升谷に新汰は思わず首を振っていた。 「いえ、特には」 「じゃあいいじゃん」 升谷はそう言うと、新汰のシャツを引っ張ってくる。 「ね?」 新汰を覗き込む双眸がキラリと光る。 色香を含んだような眼差しに新汰は思わずひくりと喉をならしていた。 へぇ…そういうこと。 「じゃあ、遠慮なくお邪魔します」 飛んで火に入る夏の虫、とはまさにこのことだと思った。

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