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第8話 -1
「ごめっ……なさ、」
楓太は怪訝そうに眉を顰めている。カイは口に手を当て青ざめた。
(何で思い出すんだろ)
キスをされそうになった時一瞬脳裏に蘇ったのは龍崎とのキスだった。
泣いている子供をあやすようなそれは龍崎にとって子供の額や頬にするのと何も変わらないのだろう。カイ自身驚きはしたがそれに特別な意味があるとは思わなかった。
けれど今それはカイにとって特別なものへと変わる。
大切で、愛しくて、少し切ない記憶に。
じわりと目の奥が熱くなる。
「あんた、泣いてんのか」
ふるふると首を横に振る。瞳には薄らと涙が溜まっていた。
泣く理由がない。何で泣きそうになっているのか、自分でも分からない。
ただどうしようもなく、龍崎の顔が見たくなった。本物の龍崎の顔を。
その時、遠くから誰かの声が聞こえた。
耳を澄ますと二度目ははっきりと聞こえる。自分の名前を呼ぶ龍崎の声が。
その声を聞いた途端心臓が強く揺さぶられた。
「カイ」
声に引き寄せられて出て行こうとすると腕を楓太に掴まれる。
「……っ楓太さん、すみません。この件はもう」
「分かったよ。分かったけど、このまま逃がすのも癪だから」
楓太はそう言うとにっと口の端を吊り上げカイの腕を強く引く。楓太の胸に倒れ込むような形で楓太の腕に囲われたカイは訳が分からず目を見開かせた。
瞬間、スパンと襖が開かれる。
「カイ君!」
額に汗を浮かべ、息を弾ませた龍崎が目の前に現れる。
「龍崎さん」
ぎゅっと心臓を掴まれるような息苦しさに目を細める。
どうしてこんなに胸が苦しいのか、どうして自分の名を呼ばれるだけでこんなにも嬉しいのか、その意味に気づきつつあった。
「楓太、お前何してんだ」
龍崎の顔が険しく顰められる。
初めて見る龍崎の冷めた表情にカイは息を呑んだ。
「見て分かんだろ? 久し振りだな大地、イイとこなんだから邪魔すんなよ」
な、と耳元で話し掛けられる。楓太の手が鎖骨を通って襟口から中へ侵入する。
「楓太さん……ッ! 何で、」
龍崎に見せつけるようにいやらしく触れて来る楓太にカイは抵抗する。
龍崎が見ているのに。
龍崎には見られたくないのに。
楓太の身体が吹き飛んだのは一瞬だった。
気づいたら目の前に龍崎の背中があって、楓太は壁に身体を打ちつけて蹲っている。
あまりにも突然の事にカイは状況が掴めず言葉を失った。
「表出ろ楓太ァ!! 俺がぶちのめしてやる!」
ドスの効いた怒号が響き渡りびりびりと空気が震える。
「りゅ、龍崎さん……?!」
あの温和で滅多に手を上げなさそうな龍崎が声を荒げている。口の端に血を滲ませた楓太が立ち上がりお互い暴言を吐きながら殴り殴られの取っ組み合い。
呆然と立ち尽くしているカイを置いて二人はいつの間にか転げるように部屋を跨いで移動していて、龍崎が楓太に頭突きを食らわした所でやっと諍いは落ち着いた。
「りゅ、龍崎さん」
はー、と深く息を吐きながら項垂れている龍崎の背中におずおずと声を掛ける。
龍崎ははっと顔を上げ掴んでいた楓太の胸倉をぱっと離す。どさりと楓太の身体が畳の上に打ち付けられ非難めいた呻き声が聞こえた。
「カイ君――」
龍崎が駆け寄ってくる。龍崎に触れられそうになった瞬間、緊張した身体が思わずびくりと震えた。
しまった、と思った時にはもう遅い。龍崎が今どんな顔をしているのか、どうせ眼鏡を失った今は大して分からないだろうに知るのが怖くて見上げる事が出来ない。
さっきまではあんなに龍崎が恋しかったのに。今は、だからこそ顔を見れない。
怖がらせたと思ったのか、龍崎は行き場の失った手を下ろし俯いたカイを見下ろす。
「カイ君、うちの弟がごめん」
大丈夫かい、といつもの優しい口調で話し掛けて来る龍崎にこくこくと頷く。そして頷いてしまってから、あ、と気まずそうに言葉を濁す。
「弟さんは、楓太さんは……その、悪くないんです。本当に、あの俺……晃、そう晃の事にしても無駄に拗らせちゃったりして、俺部外者なのに。だから、本当にごめんなさい」
居た堪れなくて、龍崎の顔も見る事が出来なくて、頭の中はパンク寸前だった。
「あいつの事なんか庇わなくて良いよ。あと、悪いのは全部うちの人間だからカイ君は何も悪くない」
違うと首を横に振ると龍崎は苦笑いを浮かべてまたごめんねと謝る。
「本当はもう君を泣かせたくなかったんだ。もう苦しめたくなかったのに」
懺悔するようなその消え入りそうな声にカイは目を細める。
楓太と殴り合っていた時に叫んでいた龍崎の言葉が脳裏に焼き付いている。
カイの身体を案じている言葉だった。
カイを大事にしている事が伝わる言葉だった。
楓太には申し訳ないけれど、それが堪らなく嬉しかった。
「違うんです。俺が泣いてたのは、楓太さんのせいじゃないんだ」
折角引いた涙がまた厚い膜をつくる。
顔を見られたくなくて、恐る恐る手を伸ばす。くたびれた龍崎のスーツの端を弱々しく掴み、その胸に頭を預けた。
両の瞳からは玉の涙がほとりと零れる。
「カイ君……?」
戸惑いの声と共に優しく背中を抱かれる。
この人の事が好きなんだと身体が叫んでいる。
もう十分過ぎる位良くしてくれた。友人のように、家族のように、温かく接してくれた。
なのにこれ以上何を求めるというのか。
(好きだなんて、言っちゃ駄目だ)
この関係を壊したくない。
(それに再婚してないって事は、もしかして亡くなった奥さんの事をずっと……)
溢れそうになる想いが透明な雫になって零れていく。
いつの間にこんなに涙脆くなっていたのだろう。
いつの間にこんなに貧欲になっていたのだろう。
愛されてみたい。
伝えたい。伝えたくない。
高まる気持ちを抑えられなくなりそうで、自分が怖い。
「カイ!」
弾けたように背後から声が聞こえ、どんと足元に衝撃を覚えた。
「晃……!」
ぐいと涙を拭ってしゃがみ込み小さな身体を抱き締める。
「カイ? どうしたんだ、どっかいたいのか?」
「ううん、大丈夫。何でもないんだ」
苦笑いを浮かべてありがとうと口にする。
晃を見たらすっと気持ちが落ち着いた。だからこその『ありがとう』だ。
この気持ちは隠すべきものだから。
「美波カイ君かね」
晃が来たのと同じ方向から現れた着物姿の中年の男はどっしりとした風格があり威厳を漂わせる。
強面のその男を見上げカイは凍り付いた。
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