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第2話

かなでとの日々は背筋に這い上がるような快楽とやさしい手つきで撫でられるような幸せの日々だった。 かなでの歩き方、食事をしているときのぷっくりとした下唇、寝ぼけ眼の半分閉じた目つき。それらを組み合わせて夢想してもまだ有り余る。16という子どもなのに――いいか、ほんとうに子どもなのに――薄っぺらい皮膚の下に暗い水底にうずくまるサキュバスを宿している。光を照り返すガラスのようなさざ波のはるか下、インクのたまり場のような暗黒。 その子どもの仮面を保つかのごとく、かなでは甘いものを好んだ。 お気に入りはホット・チョコレートをかけたスペシャルサンデー。熱いチョコレートがかかった部分を舌で冷たいクリームと一緒にぐちゃぐちゃにする。マーブル模様。 「熱いチョコは嫌い?」 ソフトクリームの山を征服しにかかっていた彼はふとこちらに顔を向けた。コーヒーの苦い香りが顔に覆いかぶさった。 「嫌いなわけじゃない」 朝にコーヒーを飲むのはいつものこと。 「じゃあ食べてみたら」 俗っぽい調子で言うと、彼はお勧めのスペシャル・サンデーをスプーンですくって、差し出した。おりしも彼自身が征服し、唾液とクリームとチョコレートがどろどろに溶け合ったところだった。一部は舌の形に合わせてはっきりと山が崩れている。 口を開けると、すぐさまスプーンが突っ込まれた。銀の冷たさとチョコレートの甘さ。どろどろのかたまり。少年の薔薇色に色づいた無邪気な頬。 そしてかなではその後、俺の望みどおりに唇を近づけた。 ああ、なんという夢見心地のペット! 鳥かごには鍵が必要だ。哀れな小鳥は(もし本当に小鳥になっていればの話だが)一人では外に出られない。猫の子一匹 出られない・・・・・という宣伝文句を聞いて、少々大げさな錠前がセットになった鍵を買った。 かなでは鍵をかけられることに何も言わなかった。そのぶん、退屈で仕方がないといった様子であの魅力的な腕と脚を行儀悪くソファでばたつかせるのだ。 しかしある日、いつもの行為の後、昂ぶった熱の去った身体をもてあましていた彼は、唐突に目を輝かせた。最高の暇つぶしを思いついた、と言う。 「あなたの帰るのを遅らせてよ」 「毎日帰っているだろう」 情熱のあとの冷めた身体にシーツを絡ませた。白い身体に宿るサイドランプのオレンジ色の光。 「違うんだ、帰るのを遅らせてっていってんだよ」 「俺がお前に会うのを毎日楽しみにしていないと思うか?」 「思わないけど」 そういいつつも、わかっていながら彼は不服そうに唇を尖らせた。なんという残酷な仕草だろう。 「怒るなよ。代わりに欲しいものを買ってやるから。何がいい?」 「おれ、そんなに物欲しそうに見える?」 言ってから、彼は自分の言葉に怒ったように戸惑いがちに瞬きし、それから髪に手をやってかきあげた。柔らかな温かい髪。あちこちはねて、癖気の強い髪。もしかなででないほかの誰かがこの髪をもっていたら、きっととてつもなく異質に思えることだろう。指を差し入れて戯れに巻きつけると、ドロップのような両の目がじっとこちらを見つめた。 「あなたっていつもそうなの?」 「なにがだ」 「なんでもないよ」 かなではあきれたように言ったが(すくめる肩の丸っこさに反して、表情は穏便さを嫌う若い女のようだった)、俺が促すと、きちんと顔を向けて右の頬に口づけた。体温の高い唇。これがどれほどの魔力をもっていることだろう。 結局、その『最高の暇つぶし』とやらはこの日は聞かなかった。今思うと、愚かしいことだ。 ひとつ言っておきたいのは、俺は決して監禁による拘束に情愛を見出すような性的嗜好の持ち主ではないということだ。もっと言ってしまえば、鍵をかけるという行為は一種の保険と同じであって、ある程度の災いを避ける防衛手段でしかない。 しかし俺はまた鍵をひとつ増やした。銀色のつやつやした、鈍い色をもつ鍵で、以前買った店と同じところから購入した。しかし聞いてもらいたい。そうせざるを得ないほどの理由があるのだから。 かなでは次第に、鳥かごの中でさまざまな遊びをするようになった。 最初はテレビを食い入るように、まるで神の啓示を受けるかのように一心に見ていたのが大半だったが、次第にそれも飽きてきたようだ。 そのうち自分のエネルギーをもてあまし、夜中によく『奇襲』をかけてくるのがお決まりになっていった。それは俺をのけぞらせるような情欲であったり、本当に単なる児戯であったり、映画のワンシーンにあるようなロマンチックな設定だったりした。 先日などはいつまでたっても彼が目を閉じずになにかぶつぶつ囁いているのに、早く眠れと母親のように言ったのを覚えている。もしそこにブロンドのぱっちりした青い目の人形があったとしたら、本当の子どもに見えただろうに。 そう、かなでは子どもだ。世間的に見れば16という年齢は、なるほど大人として扱われる場合が多いかもしれないが、俺にとっては小さな細い手足をもつ子どもだった。 己のやわらかな唇がもつ魔法と魔力を知り尽くしている。それでも彼は子どもなのだ。純粋で、邪悪で、単純な子どもなのだ。そう思っていた。子どもの考えは柔軟だ。環境に適応するのは大人よりも数倍も早い。 しかし俺の考えはある日あっさりと看破されることになった。 その日の夕方、俺が帰宅してみると(はっきり覚えている、19時かっきりだった)、いつも見える愛しき我が影は見当たらなかった。 かなで!かなで! はじめは小さく、次第に大きく。しまいには焦りとともに叫びだした。ひどく疲れている。喉がからからだ。冬の空気は冷たく、喉に響いた。かなで! 冷たい露が浮き出した窓に近づいて、はっと目を見開いた。目を疑う、とはこのことを言うのだろう。外気の冷たさの中にぼんやり浮かぶ消えそうなオレンジの光。そこに無防備に姿を映す小さな人影。あの子どもが、鳥かごにいたはずの小鳥が、灰色の薄汚れた街角を歩いている! 矢も盾もたまらず飛び出し、紫の人影に飛びついた。かなではちょうどどこかのみすぼらしい格好の男に声をかけられる寸前だった。 「どうしたの」 愛しいペットはきょとんとした顔で、大きな瞳をきらめかせた。まるで何か忘れ物でもしたの、と聞く家人のように。幸いなことに、彼に声をかけようとしていたその男は、舌打ちしつつ去っていった。混乱の極みにある中でそれらを追求するより先に、言葉が口から流れ出た。 「鍵は…」 ああ。思いついたような声。 「あんなの、あけちゃった」 見せびらかすようにその爪先にあったのは、一本のヘアピンだった。 様々な色彩が飛び回る頭の中に、さらに絵筆を乱暴に差し入れられた気分だった。この愛しい少年は何を言っているのだろう。何の罪悪感もない表情。おかげで、哀れな男は次の台詞さえ何を言ったらいいのかわからない状態だ。 「なあ、かなで」 できるだけ父親のように優しく言おうと意識しながら、ようよう言葉を選んだ。 「俺をあまり心配させないでくれ。どうしてこんなところに一人でいるんだ」 「心配ってなんのこと?」とっておきの無邪気さで、かなでは笑った。「だっておれはあなたに会う前もここにいたじゃないか!」 俺はそこで、とうとうかなでの『最高の暇つぶし』の意味を知った。散歩のように外出し、いつ襲ってくるかわからないようなけだものに声をかけられるのを待っているのだ。 そして恐ろしいことに、この小さな悪魔は、俺があわてふためいて探すのを確実に楽しんでいる。なんてことだ! かなで。俺のかなで。 鍵を増やそうかとも考えた。しかし既にそんなことは無駄だとわかっていた。 かなでは元からかなでであったのだ。それでも、俺は彼の魂のさまざまな部分を愛していたし、一度得た快楽を手放すことは難しかった。俺はとっくに堕落しきっていた。 おりしも、かなでは外に出た直後はいつにもまして俺の愛にこたえてくれた。そして跳躍するような絶頂の極みに達したあと、夢見るような目つきでこちらを見るのだ。おそらくはこの行為のせいか、ひどく子どもじみた容貌にもかかわらず、彼は特殊なけだるい輝きに満ちていた。きっとそれは俺が気づかなかっただけで、出会った当初からあったのだ。それこそあの下衆な男たちや(認めたくはないが)俺をひきつけたものの一つに違いない。そして、その輝きは少しも失われてはいない。 そう、失われてはいなかったのだ。 素敵な『暇つぶし』の回数はますます頻度が多くなった。しかし俺がきびしい目を光らせて口うるさく言っても、思わず怒りにまかせてその腕を振るっても、何も変わらなかった。待つ長さは多くなり、一緒にいるときはほとんどベッドの中にいるありさまだった。 しかし、驚くべきはかなでの態度は(ベッドの中のそれとは別にして)少しも変わらなかったのだ。無言の主張ともいえるその態度に、俺はついに、何も強制することができなくなってしまったのである。 もはや小鳥はここにはいない。

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